こんばんは、kanaです
今日は結婚してからの
「わたしのこと。その5」
になります。
新居は母の実家まで高速道路で30~40分程度でした。なので、成人式や婚礼の仕事があれば手伝いに帰っていました。
下の写真は、帰省した時に着付け講習会で振袖の展示モデルをした時ですが・・・
この直後のリハーサル中に冷や汗がでて、目がぐるぐるまわり立っていられなくなり倒れてしまって、
皆さんに大変な迷惑をかけてしまいました。
もしや、と思ったら第一子を授かっていたようです
ひとりめを出産後、授乳しながら母の婚礼の仕事を手伝ったこともありました。
そして、
ふたりめがお腹の中にいるとき・・・
父が61歳で亡くなりました。C型肝炎からの肝臓がんでした。おそらく過去の大きな手術が原因と思われます。ずいぶん前から治療をしていましたが、ついに治ることはありませんでした。
私が美容業に転職するときに、ただ一人「kanaが本気でそうしたいと思っているんなら、好きにしたらいい。」と後押ししてくれた父。
父が亡くなったとき、色々と大変なことがありましたがそれはまた、別の機会があれば書かせてもらおうかなと思います。
ふたりの子供が3歳、5歳になったころ働きたいと思い着付け教室講師の面接を受け採用されます。やる気満々で着物で面接に行きました。しかし、主人の反対に反対され断念(泣)こどもが小さいからかわいそうだし、ついには次のことを守ることができるなら許可しますと
※原文のままです。このメールずっと根にもって保存してます!
「家計が苦しくて仕事をしてもらうのではないので家事など家のことはいままでどおりきちんとする事。仕事はあくまで気分転換と考えて仕事のことを優先しないこと。自分をあまりあてにしないこと。」
それで、私もあきらめてしまった。
「もう一生頼まれたって働かない!!」と。
実際は講師になるときに道具を購入しなくてはならないので、確実に悪徳着付教室だったと思います。主人もまともな職場ではないと思い反対したのかもしれません。
主人の転勤も数か月後に決まっていたらしく、どちらにしても無理でした。これは大阪に住んでいるときのこと。
岡山→兵庫→大阪→愛媛→また兵庫でストップ
働くことを反対されたくやしさから「それなら働く以外で、自分の好きなことして発散してやるぞ!」と、まずは幼稚園の行事などに着物で参加してみることにしました。
すると・・・
「私も着てみたい。教えて」と友達数名に頼まれ、予期せずプチ着付教室の先生気分を味わえました。
好きなことをしようと思うものの、やりたことは和っぽいことばかりで。
2007年 日本茶アドバイザー認定
2008年 着物文化検定2級(1級はマニアックすぎて断念してます)
あとは、近所の呉服屋さんの無料着付教室に通ったり。
日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ(森下典子さん)を読んですぐに影響され、茶道(表千家)も少し習っていました。
その茶道教室は、お稽古の時に教室に置いてある着物や帯を借りてもよいとのことでいつも色々なお着物に触れることができました。忙しかったらジーパンでも大丈夫なお教室で、他にも登山や陶芸(抹茶椀を土からこねて造りました、コップとかも)、茶事も夏は浴衣でしてみたり。楽しかった
そして予期せず
40歳のときに・・・
3人目がお腹に
年齢もあり自分も子供もリスクは高い、病院の先生にも「よく考えてくださいね。」と言われました。でもでもせっかく授かった命!
産むことに決めました。
最初は、熱っぽいしだるくて動けなくてきっと悪い病気に違いない!と思ってあやうく普通の病院に行くところでした
その子が生まれる2日前まで茶道教室に通っていました。いまでも茶室は大好きな空間です。機会があればまたお稽古したい
こうして、はたからみれば楽しく専業主婦生活を送っていたかにみえる私ですが・・・
やっぱり働きたくて、子供が小さくてもできる仕事、主人に頼らなくてもよい仕事、家のこともおざなりにならない仕事をいつも探していました。
けれど、結婚式の招待状をつくる内職不採用(友達は採用されました)、レストランも土日が無理で不採用。
自信をなくし小さな美容院でシャンプーができればよいということで採用されるも、あなたのシャンプーが下手だからお客さんが減ってしまったと言われる始末
・・・自分には価値がない、子供のせいで身動きがとれず、一生懸命仕事をしても評価されない、そしてなんの取り柄もないつまらない人間だと思うようになってしまいました。
日々の暮らしはなんとかこなしていくものの、結婚前のように懸命に取り組める仕事もなく、このまま家のことと子供のことと趣味なんかをなんとなく繰り返していくだけで年をとっていくのかもと。
つづく