淡河城主の淡河彈正忠定範の知略
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 今からお話しするのは、神戸市北区淡河のお話です。1221年の承久の乱で北条氏の一族が地頭となり、淡河城をつくりました。鎌倉時代から戦国時代まで続いた淡河城は上山城とも言いました。南以外の三方は20mの断崖で、天然の要害になっています。城域は南北約500m、東西約200mの広大なものです。
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 時は進み、1336年の(楠木正成)湊川の戦いがあり、戦国時代にはいりました。

 1560年織田信長軍は桶狭間の戦いで今川軍を破り、全国統一に入る。

 1578年織田信長の家来の秀吉が、神鉄道場駅のすぐ側の蒲公英城を滅ぼし、三木の東の守りの、切畑城(小野三郎義晴)を焼き、その時、有間神社も戦火にかかりました。また、ハ多の大蔵山奥蔵寺という大きなお寺がありましたが、これも戦火を受けました。そして、石峯寺の末寺(光山寺)を焼き、淡河城に迫りました。 
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 淡河城は三木城の国境の守備隊として守りを固め、食料の調達を毛利氏(広島)から援助されました。

 そのときの毛利の軍船は数百隻に食料を満載して明石の海岸に押し寄せました。淡河氏は花隈城(神戸市中央区)~丹生山城~淡河城の食料運搬ルートを確保し、三木城に運び込みました。

 秀吉はこのルートを封鎖して、淡河城に迫って来ました。
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 淡河城は天然の要害の地にあり、また、城主は知略に優れた淡河彈正忠定範です。一族郎党5~60人と足軽人夫300人を集めて敵が来る道に落とし穴を掘り、馬止めの柵を設け、車菱を撒いて、逆茂木、大綱を張り巡らせるなどの防備を固め、また、近在の牝馬を一匹300文で5~60匹を集めました。そうして、整備が整ったところで「淡河城では、連日のように城外に出て作業をしている。」という噂を流しました。
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これを聞いた羽柴小一郎秀長軍は500騎を二手に分けて攻め寄せました。ところが車菱のために足を痛めるものが続出攻めあぐねています。

 「播州太平記」では淡河定範の奇略で羽柴小一郎秀長軍が攻め込んで来たときに、牝馬を放して追いやれば羽柴軍の馬共はこの牝馬を見て狂い出し、飛び跳ね、乗り手を落とし大混乱になり、そこへ淡河勢が攻め込むと羽柴軍は戦死者を多く出し、散りじりに逃げ帰えりました。
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 大勝利した淡河軍は今日の勝利は歴史に残るだろうが、秀吉軍はきっと腹を立て大軍をもってせめて来るだろう。淡河軍の小勢では戦うのはムリと判断し、三木城に入って戦うことにしました。淡河城に火を放して一族郎党300人は三木城で籠城しました。翌日は秀吉軍が来たが淡河城は抜けのからであったといいます。

 秀吉軍による「三木の干殺し」が始まります。