諦観と安西先生 | 仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

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ブログ、メルマガを書くようになってから、


ふと思ったささいなことを手帳に書き留めるようになりました。


道を歩いていても、テレビを見ていても、人と話していてもえんぴつ




そしてパソコンに向えば、それらの走り書きを


文章にしてみようと思ってカチャカチャと。




煮詰まらずに指が止まったら、


悩まずに、放り投げずに、とりあえず保留にしておく。




そんなストックの中から、毎日の文章が作られていってます。




他の方はどうしているんだろう。。。




【今日の仏語】は『諦観』です。



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『諦める』という言葉があります。




▼オリンピックでメダルを取りたいと子供の時からの夢だった人が


あと一歩及ばず、日本代表の人選からもれて、意気消沈、


あと4年間、気力体力が続くだろうか、と思ったときに、


「もうあきらめよっかな(-з-)」


と使ったり、


▼あるいはダイエットしようとがんばるものの、


一向に変わる兆しもなく、


むしろ体重が増えてきて、


「もうあきらめたら」と周りの友人にいわれたり。


(私のことです(^_^;))




ユメをあきらめる、目標達成をあきらめる、など、


どことなく、ネガティブな意味に使われます。




スラムダンクの安西先生の数々の名言の中に、


「あきらめたらそこで試合終了ですよ」とありますが、


「あきらめない」姿こそポジティブであり、


すぐあきらめる人は成功できない、消極的な人だと言われます。


 

■さて、本来は、この「あきらめる」という言葉、仏教由来であるます。




漢字で「諦観」と書き、諦はインドの原語「サットヤ」で


真理、明理ということです。




観はミルということですから


諦観というのは「アキラカニ真理ヲミル」ということなのです。




この「アキラカニミル」の仏語が次第に変化して


「アキラメル」になりました。




ところが言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、


その表す意味までが変わってしまったのです。




本来の「諦める」とは


【なぜそんな結果になってしまったのか、


その原因を明らかに見なさい】


ということです。




先ほどの例でいうなら、


【オリンピックの人選に漏れた】のは結果ですから、


必ず原因があったのです。




その原因を正しく分析し、


その原因克服に努めれば、


結果は変わります。




ですから本来の「あきらめる」とは、


どうしてあと一歩で選ばれなかったのか、


その原因を、ごまかさずに、やつあたりせずに、


しっかり目を向けていく、ということなのです、




あるいは【ダイエットできない】のも結果ですから、


必ず原因があるのです。




私ならさしづめ、夜食べるのが遅くなるから、でしょうか。




悪い結果が起きている時に、


なぜこうなってしまったのか、


その原因を反省するのは痛みの伴うことですが、


そこから目をそむけずに、八つ当たりせずに、


あきらかにみていこう、というのが


「諦める」という意味ですから、


大変ポジティブな言葉であり、


人生を切り開く大事なポイントを示す言葉です。




そして、この『諦観』は仏教の根幹をさす、大事な内容なので、


今週はこのテーマを続けてお話していきます。


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