おはようございます^^気功整体師の岩瀬です。

 

「思いやり」は、思考以前からある本能的な自然な働き。
観念としての「思いやり」は本当の思いやりではなく、
真の思いやりは思考が止んだ時に、すーっと浮かび上がってくる。
それは、気功でいう「てあて」のようなもの。
 

ぽかんとして手をあてていると、
自他を区別しない純粋な愛がすべてを包み込むように働き始めます。

 

思考によって思いやりを育てることは
いかなる意味でもできることではありません。
 

私は「思いやり」という言葉を
憎しみや暴力のとは逆の、対照的な意味で使っているのではありません。

 

でも、もし私たちが深い思いやりの心を持っていなかったとしたら、
私たちはどんどん残忍で、お互いに非人道的になってしまうでしょう。


私たちは機械的な、コンピューターのような心を持ってしまうのです。
ただ単に、ある機能を果たすように訓練された心。


安全を求め、身体的あるいは心理的な平安を求め、
とても深遠な美しさや、生命の全き重要性を失っていくでしょう。

思いやりは、習得して身につけるものではないのです。

 

思いやりは、「思いやり」という言葉ではありません。
言葉は単に過去のものです。


そうではなく、現在活き活きと働いているものです。
「思いやり」という働き、いわば動詞であって、
「思いやり」という言葉でも、名前でも、名詞でもない。


ここで動詞と言っていることと、言葉と言っていることとは明確に違うのです。
動詞と言っているのは、現在生き生きと働いている状態です。


一方、言葉と言っているのは、いつも過去の状態なので固定的です。
あなたは、その名称や言葉に活力や動きを与えようとするかもしれませんが、
現在生き生きと働いている「思いやり」という動詞とは全く違うものなのです。

思いやりは感傷ではありません。


いわゆる包み込むような同情や共感ではないのです。
思いやりは思考を通じて養うことができるものではないのです。


鍛錬でも、制御でも、抑制でも、
あるいは親切であろうとし、敬おうとし、やさしくしようとすることでも、
あるいは他のいかなることを通じても養うことができないのです。

 

思いやりが働き出すのは、たったその時。
思考が、まさにその思考の根底において止んだ時です。

 

最後まで読んでいただき有難う御座います。