こんにちは、夕陽です。

 

【統合失調症患者が「東大受験」してみようか】にお越しいただき、

ありがとうございます。

このブログは、皆さんへの報告というよりも、僕自身の記録・備忘録という目的で進めるつもりです。

 

統合失調症患者が東大なんて受かるのか?そもそも、受験するところまで行けるのか?

障害を知る人の中には、そう心配する方もいるのは分かりますが、、、

そんなことは、僕も分かりません笑

 

現在2024年7月上中旬。

受験予定は、7ヶ月後。

 

僕がこれから、どうなっていくのか?

興味がありましたら、思い出した時などに訪問してくだされば嬉しいです。

 

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東大アドミッションポリシーにしろ、

例えば『ドラゴン桜』にしろ、

指導者の立場から、社会問題に関心を持つように東大受験生は求められます。

 

今回は、、前回まで東大APについて書いたので、

社会問題と「歴史」を関連づけようと思います。

 

 

目次

・統合失調症

・「恥を知れ」!?

・大義名分論が歪な理由

・日本人の「許し方」

・謝るのは、どっち?

・日本史を背景にした教育

・虐めによる自死事件の責任を追及することはできるのか??

 

 

 

統合失調症

 

僕は、統合失調症患者です。

その最大の症状は、疲れやすいこと。

 

統合失調症とは、、

心・精神・意識・魂が強制的に「身体」から離れてしまうこと。

 

だから、「身体」のペースを感じ取れないし、

「身体」に動いてもらうために、健常者と比較にならないほど「身体」を意識しないといけない、、から、

疲れやすいのです。

 

病とは、機能性の問題です。

健康の定義が、例えば「身体」が楽に本来の動きをしている、、こととして、

 

統合失調症も、何かの機能が落ちている、、こと。

 

 

 

それは、どんな意味があるでしょうか??

例えば、風邪なら、疲れが溜まったり、不健康な生活を続けたりして、免疫の力が弱まって、ウイルスに冒される、、

 

それは、休んで体力を回復しなさい、、

不健康な生活を見直しなさい、、

 

そういう意味が付与できると思います。

意味を付与してるのは人間の解釈だけど、その意味はちゃんと機能性を考慮していますよね。

 

風邪を引いたのだから、もっとタバコとお酒を楽しまなくちゃ、、というのは、

機能性を考慮していません。

 

 

 

何が言いたいのか?、、というと、

統合失調症も、同じだ、、ということ。

 

つまり、機能性を考慮しながら、意味を付与することができる、、付与することが大事だ、、ということ。

 

統合失調症の意味とは、、

「理性」を重視し過ぎた健常者と、この宇宙の中でバランスを取るために、

「理性=肉体」から強制的離されてしまった存在、、だから、

視野狭窄になってしまった健常者にブレーキをかける役割を持つ、、のです。

 

だから、卑弥呼は、実弟にアドバイスしていたのです。

 

だから、統合失調症患者というのは、、

社会の立ち位置として、女性的な存在なのです。

 

日本史では、

水戸学で、男性以上に有能だった神功天皇を皇后に格下げします。

次に、敗者であるはずの大友皇子を、天皇に格上げします。

そして、最後に、血を否定し、「大義」を絶対とします、、つまり、「大義」以外を排他します。

 

これで、明治以降、、

完全に、統合失調症患者は、人間であることを否定されます。

 

女性的な立場である統合失調症患者。

しかも、「病」として意味を持つには、「血」が大切にされるグループの中にいる必要があるのです。

 

人類、日本人として、平和に生きる、、ためには、

統合失調症患者がバランスを取る、、必要がある。

 

だから、大昔は、統合失調症患者は、神の声を届けるって言われたんです。

 

「人類」の中で、発症率は一定なんです。

決して生活習慣がどうこう、、ではないのです。

 

だから、「血」を否定したグループでは、統合失調症患者が増えるし、症状は酷くなる。

例えば、ナチス時代のドイツ、明治以降の日本、魔女狩りの影響の強い欧米。

 

 

 

 

「恥を知れ」!?

 

都知事選に出馬した石丸氏。

YouTubeの議会切り抜き動画で、かなり有名な人です。

 

ここで書くことは、すべてYouTubeの動画と、YouTube経由のニュースがソースになります。

 

健常者には理解してもらえないかも知れないけれど、、

統合失調症患者視点なら、、

「恥を知れ!」って、年上に言ってしまうのは、その時点で完全アウトなんです。

 

だから、僕は最初のころ、動画の切り抜きって、全部アンチ石丸氏、、だと勘違いしていました。

僕から見ると、全部、石丸氏に悪いイメージを与えてるから。

 

「恥を知れ!」という言葉、、

破壊の意識しかなく、「何かを創る」という意識の人は決して言わない、、というより、言えない言葉です。

 

多くの人が、僕に反論するでしょう。

けれど、、僕は「大義名分」というのを認めていません。

 

なぜなら、、「人間」としての機能に反するから。

ここでの「人間」の定義は、デカルト式でなく本来の「人間」という意味です。

魔女狩りで火刑に未だされていない時代の、ケルト民族が基準になります。

 

 

 

 

大義名分論が歪な理由

 

お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、、大好きですか??

それは、どうしてでしょうか??

 

優しく、知恵がある、、だから、好き。

いじわる、、だから、嫌い。

 

それは、、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと、あなたの個人的な関係です。

 

それで良いのだし、

それ以外で好き嫌い、、って、ないでしょう?

 

家系図で上位に書かれてる、、のを見て、

突然、尊敬の念がわきあがる、、なんて、あり得ません。

 

だから、大義名分論というのは歪なのです。

 

人間と人間なんだから、

相手をどう感じるかは、自分の自由でありたい、、でしょう??

 

 

 

 

日本人の「許し方」

 

あるYouTubeチャンネルで、帰国子女にこう言っていました。

 

日本人はすぐに許す。

例えば何かを汚した、、それを謝ってもらって、謝ったんだから許す、、って。

だから、一言謝るだけで良いんだ、、って。

 

 

 

だから、、

日本では、虐めと自死が多いのです。

 

何が起きてるか、分かりますか??

 

大義名分論があり、それを土台に、教育があります。

つまり、上下関係が固定される。

 

相手が謝れば、許す。

だから、日本人は優しい、、と、自画自賛する。

 

あぁ、無情、、

だから、多くの人を死に追いやってることに気づかない。

 

 

 

 

相手をどう感じるかは、本来、常に自由。

「心」の領域は、常に自由。

 

けれど、デカルト式の教育を受けてるので、自由であることの重要性を感じられない。

だから、相手に自由でいてもらう、、ことを無意識に否定する。

 

だから、「相手が謝れば許してあげる」ことの非道さと暴力に気づかない。

 

 

 

謝るのは、どっち?

 

謝る、、のは、いったいどっちなのだろう??

 

相手が失敗した、、だから、相手が謝るべき立場。

つまり、自分は絶対的に上位者、、

 

自分は絶対的に上位者だから、相手が必ず謝らなければならない、、

 

相手は必ず絶対に謝らなければならない。

この私に!!!、、そうして初めて、私はあなたを許す!!!

 

という思い、どれだけ暴力的か分かるでしょうか??

 

人間というのは、本来、もしかしたら、私が間違ってたかも知れない、、

そう思うようにできている、、

 

幼い子どもと話す時、

親である自分が正しいと思っていたとしても、子どもが正しいことは、よくあることだから。

 

 

 

だから、「恥を知れ!」という言葉は、自分に絶対的に正義がある、、と思い込まなければ言えない言葉なのです。

 

そして、大義名分論と同じように、自分が絶対的に(排他的に)正しい、、という思いは、歪なのです。

 

相手の正しさを一切認めず、相手を暴力的に否定するのだから。

 

だから、明治維新のころ、

革命に夢中になった若者の多くが、簡単に他者を殺したのです。

 

自分が正しい、、と思い込むことによって。

 

 

 

相手がちょっとした失敗をした、、

だから、相手が謝ることによって許す、、

 

という思いを相手に強制することは、信じられないほど、相手を破壊するのです。

 

これが、、

例えば、旭川の虐めで女子が凍死してしまった、、ような事件に繋がるのです。

 

虐めた子たちは、相手が死んできっとホッとした、、と思います。

もちろん、罪悪感は感じていないでしょう。

 

なぜなら、僕たちは、「自分は正しい」という思いで上下関係を作り、

相手が間違ってる、、と思い込めれば、相手に対し、どんな酷いことでも強要できる、、という社会を作ったから。

 

ちゃんと、そういう思想の教育を受けてるし、

特に成人男性が中心になって、「俺って優しい」という思いを背景に構築してるのですね。

 

相手が謝る、、ことによって、許す、、って考える俺たちは優しい、、

 

 

 

いいですか??

相手がどう感じるかは、相手の自由です。

だから、相手が謝りたい、、と感じるのも、自由です。

 

けれど、自分が許す、、ために、相手が謝る、、ことを強制するならば、

その思いを抱いた瞬間、相手を土下座させ、その後頭部を土足で踏みにじってる、、くらいの暴力的な思いを、相手にぶつけてるのです。

 

だから、小さな子どもは、その瞬間、謝ることができなくなるし、

僕だって、思わず身を引いてしまうほどのエネルギーを感じるのです。

 

 

 

 

日本史を背景にした教育

 

大学受験する時に、日本史や世界史を学ぶ人は多いと思います。

 

水戸学思想を背景にした「歴史」。

女性の地位を下げ、敗者を恣意的に勝者として扱い、

「血」を否定し、実力を否定し、空想だけで上下関係を作ってしまう。

 

そんな「歴史」。

 

自分は、影響を受けていない。

そう言う人は、いませんか??

 

批判的精神を持っている、、から、と。

「歴史」を舐めてはいけません。

 

古代エジプトで土台を作り、

キリスト教会が中心となって、知恵のあるケルト文化を徹底的に滅ぼした。

 

宗教と科学は、そういう意味で同じ立場にあります。

宗教と科学が対立してるように見えるけれど、、実は違うのです、、

 

知恵を徹底的に滅ぼし尽くす、、ことが、軸になっているのです。

 

ケルト民族の持つ知恵を滅ぼす、、

そのために中世があります。

 

科学で重要なのは、「知識」です。

決して「知恵」を磨くようにはなっていません。

 

僕たち現代の日本人は、オカルトから離れてる、、と思うでしょうか?

 

しかし、、

オカルトが空想を土台にしてしまう、、としたら、

現代日本は、オカルト式の教育を受けていますよね。

 

オカルトとは、現実を見れない、、現実を見れず、空想を基準に世界を構築してしまう、、こと。

 

現実。

「謝れば許す。それで水に流す」、、という思いが、信じられないほどに暴力的だ、、という「現実」を。

 

だから、僕たちは「科学」の名のもとに視野狭窄的な宗教と全く同じ振る舞いをしてるのです。

 

 

 

 

虐めによる自死事件の責任を追及することはできるのか??

 

もちろん、責任を追及することは、、できます。

責任はどこにあるのか??

 

もちろん、他でもない自分自身にあるのです。

だって、そういう教育を受けてるでしょう??、、自分だけが排他的に正しい、、という教育を。

 

だから、、

東大アドミッションポリシーの「市民的エリート」は意味があるのです。

自分だけが綺麗だ、、と思うな、、という意味です。

「特権的エリート」ならば、問題を解決するどころではありませんから。

 

 

 

今日も読んでくださって、感謝です。