平成27年5月31日(日)14:00~、文化座アトリエにて。

作/三好十郎
演出/鵜山 仁(文学座)

キャスト/
柴田欣一郎(父):能登 剛(劇団東演)
柴田 誠(長男):藤原章寛(劇団文化座)
柴田欣二(次男):南保大樹(劇団東演)
柴田双葉(次女):古田美奈子(劇団東演)

せい子:名越志保(文学座)
富本三平:沖永正志(劇団文化座)

清水八郎:木野雄大(劇団東演)
圭子:東さわ子(劇団東演)

お光:光藤妙子(劇団東演)
浮浪者:清川佑介(劇団東演)

ものがたり/
敗戦直後、焼け野原の廃墟に住む歴史学者・柴田欣一郎の一家。

柴田は「国民一人分」の戦争責任を背負い、
大学に休職願を出し闇物資にも手を出そうとしなかった。
組合活動に手を染める長男・誠は父親の歴史観を批判し、
特攻隊崩れの次男・欣二は虚無的となり自らを持て余していた。

父と兄弟二人はそれぞれの思いを激しくぶつけ合うが、
次女・双葉は人間を許し信じようとする。
ほかの廃墟に寄り集う者たちを巻き込み、戦後の剥き出しになった現実と真実が渦巻いていく。

……戦後70年。
三好十郎の渾身作に挑戦し、戦争責任と戦後民主主義の在り方を改めて問う!
(公演チラシより―配役等一部加筆)

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この舞台を観た後、どんな内容だったか人に説明しようとして「会話劇」という言葉を使った。
けれど、言ってからすぐに自分自身で違和感を感じた。

この舞台の白眉は、後半の家族間でのやり取りだろう。
だがそれは「会話」と呼ぶには激しすぎるように思える。
「議論」という方が近いかもしれないが、それもどこかピンとこない。

強い言葉と感情が行き交う、激しい言葉の応酬。
でも、もしかするとそれはある種の団欒の風景なのかもしれない。

この舞台で描かれるのは、戦後の日本人の肖像であり、さまざまな思想であり、
終戦直後の混乱の中で人々が感じていた絶望や希望でもあり、
そして何より「家族」なのかもしれない、とそんなふうに思えた。

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この日は、文化座アトリエでの公演ということで、
駒込と田端とどちらの駅からも10分ちょっと離れたその場所を初めて訪れた。

田端駅の駅から歩き出す。
なんとなくイメージしていたような下町めいた町並みではなく、
文学館やビルを過ぎて、閑静な住宅街やお寺などが並ぶ静かな街だ。
5月としては観測史上初、と報道された暑さに庭木の緑が色濃く見える。

会場に着いてみるとなんだか様子がおかしい。あれ?受付はまだ?
そこで、ようやく気がつく。13時開演だと思い込んでいたけれど、14時開演なのだ。

……まだ12時半だもの、さすがに早過ぎる。

まあ、逆の間違いでなくてよかったと思いつつ、
とりあえず近くの公園でひと休みしてから改めて会場へ向かった。

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写真の撮り方が下手で、隣の建物ばかりがしっかり写っているけれど、
劇場は手前の階段を上がって2階となっていた。

中に入って一瞬立ち止まる。それくらい印象的な美術だ。

廃墟、というタイトル通り、崩れかけたようにゆがんだ室内。
あたりには紙くずのようなものが散らばる。

だが、実際には廃墟でなく人が住んでいることを示すのは、
舞台中央の大きな楕円形のテーブルや、下手隅の台所だ。

さて。

相変わらず前置きが長いけれど、ようやく物語が始まる。

暗くなった会場内に、明るいピアノの響き。
その合間をぬうように、ときおりズシンという音が聞こえる。

焼け出されて、親戚の崩れかけた家の一間を借りて暮らす柴田一家。

訪れる柴田の教え子や大工のかみさんとのやり取りから、
柴田が大学教授であることや休職中であること、
彼が闇で手に入れた食糧を食べようとしないことなど、
一家のおかれている状況や生活、戦中から戦後にかけてのできごとが明らかになっていく。

新聞社で働く長男は戦争中投獄されていたらしい。
次男は、特攻隊から終戦により生き帰ってきたようだ。
次女は空襲で顔にやけどを負っている。

柴田の妻は苦労の末に亡くなり、長女は終戦の日に自死したらしい。

その代わり……という訳ではないが、
南米から引き揚げてきた柴田の妻の弟 三平が柴田のところに転がり込んでいる。
三平の昔なじみで、柴田とも縁のある せいという女も家事を手伝いながら一緒に住んでいる。

家族……というにはやや奇妙な顔ぶれが、ある種の不協和音を奏でながらともに暮らす。
その様子を丁寧に描いていく前半。

そして後半になると、それぞれの抱える想いや鬱屈が、
膨大な言葉となってほとばしる。

何かを争うという訳ではない。何かを決めるための口論でもない。
それぞれの抱えている問題を解決するための議論ですらない。

ただ、言わずにはいられない。
それぞれの主張と同時に、互いへのさまざまな想いや抑えきれない鬱屈がある。

国民一人分の戦争責任。
それを是とするか否とするか、ではなく、ただ理解してくれればいいのだ、という父。
柴田の言葉は、その内容以上に、彼の見せる気迫によって観る者を圧倒する。

けれど、自らの理想を語り、父の民族主義を非難する長男とのやり取りは、
ある種の平行線を辿っているように見える。

最初はその2人の対立軸からやや退けらていたように見える次男が、
観ているうちにしだいに存在感を増していく。

特攻崩れでゴロツキめいた暮らしをしている次男の、
自暴自棄な振る舞いや野卑な言葉から垣間見えるやるせない心情や
どこか鬱屈したエネルギーを感じさせる言動が印象に残る。

双葉の真摯な言葉ににじみ出る誠実さは、聖母めいた印象さえ与えるが、
その中にも少女らしい不安やとまどいがにじみ出る。

せいの優しく頼りなげな中にも凛とした風情。
彼女を巡る男たちの想いと彼女自身の気持ちがすれ違う様子。

長女の級友である圭子の、派手な印象とは裏腹の思いやり。
彼女自身の暮らしへの自虐めいた言葉と、欣二を案ずる様子。

議論には加わらず見守る女たちを描く筆致は、少しロマンティックに感じられた。

柴田や誠の真剣さと対比をなすような三平の茶化すような言動や
迷い込んできた浮浪者の様子も含め、
人々がそれぞれの戦後を、大きな時代と価値の転換を必死で生きている、
そういう緊張感の途切れない舞台だった。


観終わって、しばらくしてふと思った。
戦後の話だけれど、現代の我々に少し似ている、と。

いろんな意味で、きな臭い昨今のご時勢でもあり、
いま、この舞台を上演する意義というものを思ったりもした。


帰ってから、青空文庫に掲載されていた脚本を読んだ。

たくさんの言葉。描かれている人々の想い。
丁重にはりめぐらされたいくつもの伏線や人間関係の描き方の絶妙さを反芻する。
そうしていると、またあの舞台を観たくなってしまう。

そういえば、三好十郎の故郷である佐賀公演を経て、
まもなく東演パラータでの上演が始まるのだ。


青空文庫の三好十郎作品リスト→ http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1311.html