カール・ヒルティ、『幸福論①』277頁より: | 真田清秋のブログ

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 『ただこのような世界観によってのみ、さらに進んで、大規模な正義と平和とが総じて可能になる⭐️。この世界観がなければ、事実上、不断の惨憺(さんたん)たる生存競争と、国家的利己主義の自然的横行とが避け難いものとなるであろう。この場合、いつもただ最強者だけが勝利をしめ、しばらくの間、強力的支配を欲しいままのするだろう。これは貧者と弱者の地獄である。ーーが、必ずしも強者の天国ではない。強者もまた、たえず彼等の勢力の失墜を恐れながら生活しなければならぬ。万一その力を失うときは、狼(おおかみ)の流儀にならって、早速その隣の者から片づけられてしまうのである⭐️⭐️。

 ⭐️ これは全ての国々を征服する第五世界国家であり、ここで人々は、平和な共同生活を営むことができる。(ダニエル書四章)そうでなかったら、「永遠の平和」はおよそ一つの幻想に過ぎない。

 ⭐️⭐️ 最強者は、ローマ皇帝やナオレオン一世のような個人の暴君であっても、または社会主義が必ずその首領に仰ぐ暴君の一団であっても、さして変わりがない。いずれにしても、あらゆる団体的強力支配は、必然に個人の独裁支配に終わるものである。

 

 しかし、事実その通りでないことは、神がその世界歴史の新しいページごとに明らかに示している。人はまた、すべての悪人が結局最後には彼等自身の真ん中に悪の頭(かしら、サタン)を見出し、一方「柔和な人たちは、地を受け継ぎ⭐️」、神の祝福を受けることを、日常の生活において観察することができる。人類が確かにより良きものへ向かってたえず進歩をつづけるということは、要するに神の存在の最も確かな証拠である。神がいまさぬならば、人類は事実上、やや優れたロシア皇帝が行ったような賢明な専制政治によってたがろうとして統治されうるだけであろうが、しかしまたそのために、必然にますます深く堕落してゆくに違いない。

 ⭐️ マタイによる福音書五の五、ホセア書一四の九、詩篇三七の一一参照。

 

 それゆえ、歴史を学んで自由を愛しながら、しかも神の信仰を持たぬという人は、たしかに非論理的な存在である。神を信じて初めて、人は自由の道における人類の進歩を堅く信ずることができ、新時代の到来をよろこんで迎えることができるのである。神の信仰がなければ、結局、民衆を恐れることになり、その結果として必然に、国家あるいは教会の人為的権力に屈服⭐️して、その生涯を終えることになろう。

 ⭐️ これは今日、きわめて著しい事実であり、前世紀の初めの状態に似ている。聡明な無神論者はたいがい、絶対的な国家権力の信奉者である。ホップス、ヘーゲル、ショーベンハウエル、ゲーテなど、その例は非常に多い。今日ビスマルクびいきの人たち、社会主義嫌いの人たちも、その大部分が、やはり心に無神論をいだくために結局そうなったのである。彼等がもし昔の教会詩人と共に、「悪の国とその族(やから)が何であろうか。神の御霊(みたま)がその手を挙が給えば、すべては覆る」と考えるなら、もっと落ち着いて多くのことを時の流れに任せることができるであろう。時はありとあらゆる事を生み出すが、しかしその結末はすでに予定されているのである。いったいに政治的見解は、普通に信じられているよりもずっと高い度において、その人の信仰告白の誠実さと根底の深さとを試す一つの試金石なのである。

 

 独裁君主国の真ん中に、ただ一国介在するということは、もし神がなかったなら、とうてい不可能なことである。今日は昔よりもなおさらそうである。アーウラで開かれたスイス連邦会議開会の辞に、「天地を想像したもうた主の御名によりて、我らは加護を有す」とあるのは、しごく単純素朴ではあるが、しかし深い真実を含む言葉である。

 政治上の自由がなければ、また宗教上の自由も長くは維持されず、結局やはり人間隷属に陥いるであろう。「教会と国家」とは解くべからざる矛盾である。これとは反対に、教会的な自由自治の団体と、市民的なそれとの併立は、互いに最もよく補い合うことのできる唯一のまったく適当な制度であり、たしかにまたキリスト教の将来の形式でもあろう。

 世界は一般に、あらゆる方面において、まさに自由によって、その完成の域に到達しなければならない。いかなる種類の強制も、暴力もこれに加えられてはならない。崇高な倫理的世界秩序に対する各個人の、やがてはまた世界の全民族の、自由意志による順従こそは、世界史の目的であり、目標である。

 しかし、人類の唯一の真実の進歩はまた、必ず歴史的に、すなわち生活そのものによって、達成されるのであって、決して哲学的に、すなわち単なる思考によって、なされ得るものではない。』

 

 

                清秋記: