とうとう念願の本場フランス料理店で働けることに。
はたして足手まといにならず、頑張れるのか...
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朝8時半、従業員用の裏口を入ると、すでに10人ほどの若いキュイジニエ(コックさん)たちがコックコートに着替えを済ませ、更衣室からキッチンのそれぞれの持ち場へと向かうところだった。簡単に自己紹介をしたあと、僕も着替えを済ませ、急いでキッチンに入って行った。
広々としたキッチンに、ポワッソニエ(魚料理の担当)とソーシエ(肉料理およびソース担当)が特大ガスレンジを挟んで向かい合い、その隣にガルドマンジェ(主に冷前菜担当)、そしてその向こうの大きな衝立の裏側にパティスリーがあり、デザートとパンを担当している。それぞれの部門にシェフ・ド・パルティ(部門シェフ)がいて、そのアシスタントにコミ(タイトルのない普通のコックさん)やアプランティ(見習い)が付いている。
ル・クロではスーシェフ(セカンドシェフ)がガルドマンジェのシェフ・ド・パルティも兼ねていた。スーシェフの役割は、すべての料理が滞りなく、完璧なレベルで作られ、円滑にオーダーが回っていくようにあらゆるところに目を配り、各シェフ・ド・パルティに指示を出すことである。忙しいオーダーの中、10人もいるわがままなフランス人を、自ら料理を作りながら束ねるのは至難の業だ。
スーシェフに手招きされ、お前は俺と一緒にここをやるんだ、と言われた。ガルド・マンジェでアミューズ・ブーシュという、食事の初めに全員に出す、いわゆる突き出し、を担当することになった。
フレッシュハーブを混ぜ込んだ鶏のソーセージや、ヒラメなどの魚卵を小さなパンケーキに仕立てたもの、兎の腎臓をベーコンで巻いてローストしたものなど、オーダーが始まるとオーダーの人数分だけ皿に盛って出す、というようなことを一カ月ほどやった。
最初はフランス語でのコミュニケーションが全くとれないので、とにかく数を言われて、その数だけアミューズ・ブーシュを出す、ということを毎日繰り返しているうちに、オーダーの通り方や、それに対応したそれぞれのポジションの動きなどが分かるようになってきた。そして肝心のフランス語も、意味は分からなくとも、それでもなんとなく耳に馴染んできて、聞こえるようになってきた。
ル・クロのスーシェフ、デニはアメリカで3年間過ごした経験があるので、他のフランス人と比べて、外国人の僕に対する接し方が全く違った。外国で自らが経験してきたであろう、言葉や習慣など違うが故の不便さや不安、心もとなさなどを感じ取ってくれていたのか、とても気を使ってくれていた。彼は英語が喋れるので、フランス語がさっぱりの僕に対しては手振り身振りに加えて、英語でいろいろと説明してくれた。と同時に僕がフランス語でも覚えられるように、フランス語ではこう言うんだ、と必ず教えてくれた。
キッチンの中で必要最低限の言葉と同時に真っ先に覚えたのが、喧嘩や罵り合うときに使う汚い言葉だ。汚い言葉も酷いが、差別的な言葉はもっと酷いので、ちょっとここでは紹介できない。いずれにしても、こういった言葉を覚えないことには、いつも言われっぱなしでストレスがたまってしまう。彼らは手こそ出さないが、言い合いの喧嘩はしょっちゅうだ。おかげで温厚で有名なこの僕も、キッチンの中ではしょっちゅうフランス語で汚い言葉を連発していた。
ル・クロで働き始めてから、1か月ほどたった頃、ランチタイムの後、清掃の時間にシェフのバンゾー氏がキッチンにやってきて、スタッフ全員に給料の小切手をそれぞれ順番にひと声かけながら配っていった。もちろんタダでいいから働かせてくれ、と言った僕の分はない。皆に配り終えると、バンゾー氏は僕のほうを見て、「カズ、シェフルームに来い」と言った。実はル・クロで働き始めてからずっと、僕は皆のお荷物になっているんじゃないかと感じていた。フランス語もほとんど出来なくて、コミュニケーションがうまくとれないし、それを補うほど仕事が出来るわけでもない。僕が理解するまで、英語と身振り手振りを交えて説明してくれるスーシェフのデニは本当に大変だ。いくらタダ働きとはいえ、役に立っていないどころか皆に余計な手間をかけていることを多少負い目に感じていた。バンゾー氏に呼ばれた時には、ああ、やっぱりきたか、とお払い箱を覚悟しながらシェフルームに入って行った。
「Ca va ,kazu?(カズ、調子はどうだ?)」と聞かれ、この後言われるであろう言葉を予想して、少々気分的には落ち気味だが、まぁ調子は良くも悪くもないのでとりあえず「Ca va bien ,chef(順調ですよ、シェフ)」と答えておいた。するとシェフは引き出しから封筒を取り出し、「よし、じゃあまた明日から頑張れよ!」と笑顔で僕に渡した。その大きな手と握手をし、「A tout a l’heur !(また後でな!)」という言葉とともに、ポン、と肩をたたかれシェフルームを後にした。
トイレに駆け込み、ドキドキしながら封筒の中身を確かめた。500フラン札が3枚入っていた。金額としてはたいしたことないかもしれないが、僕にとっては何物にも代えがたい宝物のように思えた。本当に嬉しくて嬉しくて、涙が出そうになった。
次回、ガルドマンジェからパティシエに。オリヴィエ登場!