雨が降る。雨が降る。言葉が降る。取り留めもない言葉が降る。

 

 達筆でもなければ、訂正の棒線もない。ましてやアルファベットを丁寧に並べる余地もない。

 勢いで、ペンを走らせた。感情のままに筆圧を込めた。殴り書きの文字は。

 

 筆記体の雨。

 

 空から降るhも、iも、sも、窓の向こうでアスファルトを濡らす。

 

 突然の雨は土砂降りとなり、傘を持ち合わせていなかった私は、坂の上にある純喫茶へと逃げ込んだ。

 

 珈琲を点てる香り。静かに流れるレコード。窓の外には筆記体の雨。

 ブレンドの上で湯気が微かに揺れていた。香りを吸い込めば彼を思い出す。

 

 恋をしたのは、低い声。恋をしたのは、細い指。恋をしたのは、背伸びしても届かない果実。

 私は彼に色んなことを教わった。珈琲も無糖で飲めるようになった。キスも上手になった。フレンチトーストが作れるようになった。そして、許されない恋があることを知った。

 

ここは、港街。波止場からは、一日五往復の船が出る。

旅立ちを急かされても、私はここに立ち止まったまま。私に宛てた風の便りは今日も届かない。

 

あのホテルでふたり、何度目かの朝を迎えた。ベットから降りて、裸足のままカーテンを開いて、眺めた朝焼けの中、彼には大事な女性がいることを知らされた。

 

坂の上にあるこの純喫茶からは、港街を一望することが出来る。

今も尚古い建造物が残るこの街は、時間が止まったままの様。今の私と、とても似ている。

 

言葉は裏腹だ。「優しくしないで」なんて言ってみた。「頭なんて撫でないで」って言ってみた。そんな台詞を吐いた唇を彼のおでこに寄せていた。

 

 この街にある港は『潮待ちの港』なんて呼ばれている。

どうやら私の波止場には良い潮は来ないらしい。もうどれくらい待ってみただろうか? ここへ立ち止まったまま、今も。

どうしてだろう? 思い出す景色は、後ろから袖をまくってくれる彼。髪をひとつに結わってくれる彼。

窓から見えるあの小さな港で、彼の身体にもたれる私。

 

幸せそうな思い出が、企んだ笑顔で心をノックする。私は思い出を追い払うことが出来ない。

 

「ごめんなさい」

 

 私は思わず泣いてしまった。誤魔化したいのか、平気なフリをしたいのか、大袈裟に笑ってみた。

 

「どうされました?」

 

 カウンターの奥で白髪のマスターに尋ねられる。

 

「あぁ、いや、なんでもないんです。あれです。失恋しただけなんです。だから平気です」

 

 隠したいのか、吐き出したいのか分からない私。頬を濡らした泪を拭き取ってもう一度笑う。

 

「泣くなんてズルいですよね」

 

 マスターはうつむき、ビンに紅茶の葉を詰める。

 

「好きだった、うん。好きだった。本当に、好きだった」

 

「どんなに追い越そうとしても、敵いっこないですよ。思い出には」

 

 泪は溢れ返り、テーブルの上に崩れ落ちる。

 

雨が降る。雨が降る。言葉が降る。言葉が降る。

 

 筆記体の雨。

 

 あの港から出航を告げる汽笛が鳴り響いた気がした。