困難や面倒はすべて草取りとすべし | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

愛でていても花は落ちる、嫌いでも草は生える

 

 

とした、道元禅師の言葉もありながら、、

 

先日久々に登場の鈴木俊隆禅師の逸話の中で私が気に入っているものの一つが、、合格

 

 

アメリカで禅を指導していた禅師のもとを訪れていたとある学生、、

 

博士論文を執筆中に、自宅近くにあった禅堂を訪ねては度々坐禅に参加していたそう、、

 

来る日も来る日も論文を仕上げなければならないプレッシャーと格闘する中気づけばその日も禅堂で坐禅をしていた、、

 

そんな彼を見かけたある日の禅師は、彼のもとに近寄り彼のアパートを指さしながら一言こう残した、、

 

 

「あそこに居て、論文を書きなさい」

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、私たちが困難や面倒、億劫なことや、やっかい事などに遭遇したりする際、、ガーン

 

 

私たちの自我は往々にしてストレスを感じ、何かしらの反発や抵抗を反射的に講じつつ、、できればそのことと向き合わないように、それが目に入らないような 「どこか」 へ逃れてしまいたいとするのが一般的な反応です、、

 

もちろん同時にこれはごくごく自然なこととも言えるものですからそうした反応自体が起きないようにと躍起になる必要はありませんが、、

 

 

先の道元禅師の言葉通り、、個人にとって都合の悪い出来事というのは、草が生えるのと同様に否応なしに、ある意味では、あるがままに起こるというのが常と言うものですから、、都合の良いことばかりや自分を安心させ満足させてくれる出来事だけを望もうとすること自体、単なる自我の独りよがりの抵抗の域を出ず、それを実現しようなどと躍起になることの機能不全性 (不自然さ)に意識的な私たちは気づくことができるはずです、、OK

 

 

草が生えるという当たり前の自然さに抵抗したところで、それでも草はみるみるうちに広がり、私たちの 「都合」 をいともたやすく侵食してしまいます、、(そこから目を背けたいとする気持ちが起きることは何ら問題ではありません)

 

 

然るにそこで大切になってくるのは、その場を置いて他のどこにも行こうとせず、ただその場に根差し、面倒でも億劫でも厄介であっても、その困難に一つ一つ取り組むということに尽きます、、ダルマ

 

 

逃れたところで、あるいは、目を背けたところで、そこから得られるのは偽りの安心です、、本当の安心 (大安心) は何が起きたにせよ、それと出会う、向き合うことによって見出されるものなのです、、というより、、逃げる必要がなくなった意識の在り様において、安心とは対極の何かなど消散する

以外にはありません、、バイバイ

 

 

 

 

 

※というわけで、明日は草むしり日和、、頑張るZEN!!ダルマ

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星