どうしてそこまで「今ここ」なのか | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

というわけで、先日来、、アマゾンプライムにて、、流れ星

 

 

ハリーお勧めの映画の筆頭、、こちらの映画がまさかの配信開始となりました、、拍手

 

 

 

 

さて、、映画の後半、、藤原竜也くん演じる若き天下人、北条時頼に招かれた際の事、、

 

 

正伝の仏法 (真実) とは何かを尋ねる若者、、

 

それに対し、多くの経典を読み、呪文をいくら唱えようと釈尊の正しい教え (真実) を得ることはできない!ときっぱり言う道元禅師、、、

 

 

それに対して、どうすればよいのかと尋ねる若者、、

 

禅師曰く、、只管打坐 (しかんたざ)、、ただひたすら坐ります、、お願い

 

 

若者さらに困惑して曰く、、何もせずに坐ることの中にどうして正法などあるのだ!?ムキー

 

 

※ちなみに、ウィキペディアによるとこの若者は、その後臨終の際、坐禅をしてこの世を去ったとかなんとか、、秘密

 

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さて、この上記問答は現代にも十分通じる教えのように思います、、ひらめき電球

 

つまるところ、、私たちの自我意識であるところの、いわば、「無意識」 の領域は、願いにしろ、幸せにしろ、救いにしろ、答えにしろ、、それを 「どこか」 に求めようとする反射性をその元来の特性としているために、、常に本来的な在り様であるところの、「ある一点」 を見落とし続けるエネルギーと言えるでしょう、、

 

 

見落としているもの、、それ即ち、、どこに行かずとも常に在る、「今ここ」 です、、完了

 

 

本来すでに実現されているために、本当だったら見落としようがないその一点を私たちは常に見落としているのです、、これを、私たちに内在する、無意識的且つ、習慣的な反射性であるということを見抜いていた禅の人々は、、その執拗な 「今ここ外し」 をいなす、あるいは、消散させるために、、

 

 

その真逆の在り様だけを、様々な修行の形態の中に組み入れたと言えましょう、、ダルマ

 

 

禅の人々は、、坐禅はもとより、、そのほかの様々な行、、洗面、食事、掃除、読経、経行 (歩く修行) に至るまで、、徹底して、「今ここ在る」 を貫きます、、動きの中であっても、目前に在るリアリティとの出会いによって、常に 「今ここ」 とひとつになると言えるでしょう、、富士山

 

 

 

さて、どうしてそこまでして、「今ここ」 なのか、、それはまさに、、「今ここ」 以外の真実など何もなく、「どこか」 に真実があるなどというのは誤解以外の何ものでもないからなのです、、

 

 

 

曹洞禅の真髄を伝えた、鈴木俊隆禅師によれば、、修行とは、この世界を明らかにすることではなく、自分の居る場所を明らかにすることだ、、という話もありましたが、、

 

 

まさしくその通り、、真実を明らかにするとは、自らの居る場所をしかと観ることなのです、、富士山

 

 

 

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※今日も読んで下さり、ありがとうございます!カエル