愛でていても花は落ちる、嫌いでも草は生える | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

、、、道元禅師がこう語ったとされています、、お願い

 

 

即ち、、あるがまま、、

 

 

愛でている花、、ガーベラ

 

美しくて安らいでいて、ずっとそこに留まりたいと思う状況や出来事の中にいるときでも、

 

いずれ流れと共にそうした状況や出来事は過ぎ去っていくものです、、

 

 

自我がそれに執着し、それを何としても維持し所有しなければと奮闘するエネルギーが増せば増すほど苦しみが実体として浮かび上がるという仕組みです、、秘密

 

 

 

一方、、嫌いな雑草、、クローバー

 

 

こりゃまた日々の流れの中で、個人の 「都合」 に反して、不都合な状況や出来事というのもその都度訪れるものです、、

 

自我性からすれば、できればそうした状況や出来事に合わないように、ずっと避けた状態で過ごしていたいとするわけですが、、そうした 「都合」 ばかりに従って事は起きていないので、

 

 

そう望むこと、あるいは、そうした状況や出来事から逃れたり否定するエネルギーが強まれば強まるほど 「自分」 はまさに 「苦しみ」 の中に居ると認識しつつ、その 「苦しみ」 を改善するためにとあれこれの策や教えを実行したり、習得しようとしたりするわけです、、

 

 

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さて、こうした前者、「執着」 や、後者、「逃避」 に無自覚に生きていた時代は誰しも確かにあるもので、

 

あるいは、様々に織りなされる出来事の絡み合いによって、冷静にそうしたことに気づいていられるかが危ぶまれることも場面に応じて起こり得るかもしれませんが、、

 

 

それでも、そうした双方の自我的様相、あるいは、そうした習性を知っているのと知らないままそのエネルギーに流されているのとでは、まさに、天国と地獄ほどの違いがあると言って良いでしょう、、手

 

 

自我が起きること自体に何ら問題性があるわけではないのですが、、自我的習性を知り、自我が起きていることを何度も気づきと共に認識すること (を実践すること) によって、、ひらめき電球

 

 

次第次第にその気づきの体感自体が、ある種習慣的、反射的に繰り返し訪れる (自我の) パターン化された反応を見抜くようになります、、目

 

 

すると、「執着」 している様相さ、「逃避」 している様相が優勢になったときには、自然とそのことを感知して手放すということが、可能性として起きやすくなることは事実であると言えるでしょう、、虹

 

 

 

 

そのことが起きれば、あとは執着せずに、あるがままに流れ去ったものではなく、今この瞬間の目前の出来事に、、富士山

 

また、あるがままに流れてきたものから逃避するのではなく、その瞬間の出会いとしてのプレゼントに、

 

 

ただひたすらに 「出会う」 ということ、そのことを置いて他に私たちが経験できる出来事がない以上、

 

私たちにとって人生の本番は、、まさに即今、私たちの目の前に常にあるのです、、合格

 

 

 

※イエス、繁忙期!レッツ!ZEN!!富士山

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了