一寸坐れば、一寸の仏 | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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一寸坐れば、一寸の仏

 

 

坐禅をする際に確か教わったように思える、こちらの禅語、、ひらめき電球

 

一寸とは、坐禅の際に用いる線香がわずか数センチほど燃えた長さのことを言うらしいですが、、時計

 

 

 

今回ここで目を付けたいと思うのは、、

 

 

坐ること、すなわち、、坐禅することで仏になる、、といった部分、、目

 

もちろん、こうしたポインターは往々にして誤解を招くこともあることは確かで、、

 

 

 

つまりが、「坐禅」 を通して、「仏」 に 「辿り着ける」 といった誤った観念を植え付けかねないといった点です、、注意

 

 

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しばしば 「仏」 は、「ほどける」 こと、、などとも言われますが、、

 

 

そもそも一体何を 「ほどく」 のでしょうか、、

 

個人的な観点で見てみたとき、、それは、ある意味で、「自己」 という収縮したエネルギー、、もやもや

 

 

執着や抵抗や恐れ、、思い込みや様々なとらわれを 「ほどく」 と言っているのかもしれません、、

 

 

 

実際、、坐禅や瞑想に際して、、私たちの 「常態」 であるところの 「どこか」 を手放し、、

 

 

ただひたすらに今居る場所から離れずに居る、今ここに気づいているということをしばらく続けていると、、富士山

 

徐々に私たちの意識は、、まやかしの 「どこか」 を諦め始め、真正な今ここに目覚めていきます、、合格

 

 

 

これがいわば、今ここに開かれる、というようなことであって、、

 

 

収縮性のある個体性がそこにおいて、ほどかれ始めて行くと言っても良いでしょう、、ドア

 

 

 

 

 

 

というわけで、禅では、、「どこか」 にある崇高な境地を求めさせたりはしません、、ダルマ

 

 

悟り系で言われる、一瞥体験などのような神秘体験も修行の中でそれなりに起こり得るものですが、、

 

禅の師たちは、嬉々としてそうした経験を語る弟子たちをまったく相手にもしません、、ガーン

 

 

彼らには分かっているのです、、そうした 「経験」 にしがみつくことで一時的に失った実体性を再度強化しようとする、その陰に潜む 「自己」 の存在 (収縮) を、、

 

 

 

ですから、彼らは、悟前も坐り、悟後も坐ります、、お願い

 

 

 

もちろんこれは、坐ることで仏に 「なる」 のではなく、、

 

坐ることによって、仏の肌を思い出す、、仏に還る、仏を見えにくくしているものを脱ぎ捨てる、、などとも言えるかもしれません、、ドア

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

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