鈴木俊隆禅師の逸話より、、
ある修行者が、生と死には果たして意味があるのかと、その疑問と格闘していました。
そして、鈴木老師に、実存的、哲学的探求を自分はしていると話しました。
彼は老師に、自分がこの問題にいかに没頭し、熱中しているのかを伝え、私が正しい道を歩んでいるかどうかを尋ねたのです。
禅師は、ただこう言ったそうです。 「そうした探求にはキリがないよ」
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というわけで、思考は常に、「どこか」 へ行こうとします、、![]()
スピリチュアル (真実) の探求において、思考のこの動きを見抜かないことには、
延々と 「どこか」 を目指し、どこまでも奔走し続け、
どこにも辿りつかない 「まま」 走り続け、迷走し続けるといった傾向に陥りかねません、、![]()
ですから、哲学的な探求は、即、迷いの様相を作り出します、、![]()
というのも、、「探し出す」 ということが、実は、、「探さなければならない何かがどこかにある」 といった観念を強め、、
探す必要も、どこにも行く必要もなく、すでに現れているものを見落としてしまう可能性をはらんでいるとも言えるからです、、
けれどももちろん、思考をするのが 「問題」 というわけでも、「悪い」 というわけでもありません、、
ですから、思考をすることを問題視して、それを止めよう、思考が起きないようにしようとすることに躍起になったりはせずに、、
その動きが起きているときに、しっかりと気づくようにする、、つまり、目覚める習慣を付けるというのが大切な求道のスタンスです、、![]()
この 「気づいている」 というとき、、私たちは、思考の 「どこか」 には魅了されてはおらず、、
どこにも行くことなく、真実と共に居る、あるいは、「真実で在る」 ということに 「還っている」 とも言えるでしょう、、![]()
「どこか」 から目覚める時、私たちは、「ここ」 にいます、、
探していたもの、探すべきものは、ずっと 「ここ」 にあったということを見出し始めます、、![]()
というわけで、、「どこか」 へ向かい、ここにない何かを 「求めよう」 とする試みには、不満と迷いが付き物であることを見抜きつつ、、
真の探求は、、「今ここ」 へ行くこと、これに深まることに尽きます、、![]()
※新年度もレッツ、禅!で行きます!─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ



