というわけで、思考は、物事が起きた後に、、
これはこういう (意味の、あるいは、価値の) 出来事だ、、
自分は今、そのような状況の中に居る、、という具合に、
すぐさま知識や常識、観念と言われるものを頼りに、
現象を枠にはめ、固定化し、その状況の中の登場人物であるところの 「自分」 という、
ストーリー上の 「個人」 を作り出します、、w川・o・川w
このスピードたるや、ある意味驚くべき程、瞬間的な反応であるわけですが、、
さらに思考は、、自らこしらえ、「レッテル」 で以て限定化した出来事に対して、、
これをこうして、このように取り組めばうまくいくだろうか、、
あるいは、もし、こんな風に事が運んだら一体全体どうしたらいいだろう、、
それでもきっと、こんな風な可能性があるから大丈夫だ、、
という具合に、、空想上の時間軸の中で、
ストーリー上の 「自分」 がどのようにその状況をやり過ごせるかといったように、
「個人的な都合」 を優先させながら、、
今ここではない 「どこか」 へ向かわなければならない 「個人」 をみるみる実体化させるのが、
この上なく得意であると言って良いでしょう、、
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もちろん、こうした思考の働き自体もまた、自然なものであり、
ときにはそれが功を奏するといった場面もそれなりには見られる話ではありますが、、
一方で、そうしたダンスに無意識的に流されるがあまり、、
混乱や不安、焦りといったものが過剰に掻き立てられることもしばしばです、、
ですから、そうした思考の奔走をくつろがせ、手放す力と言った意味で、、
気づきの作用が、(前回の繰り返しになりますが、、) 求道的にも、心理的な安定のためにも大切になってきます、、
物事を 「分かろう」、「分けよう」 という思考が起きているときに、それに気づく、、
さらには、思考が、「答え」 を求めて、「どこか」 へと奔走する様子が感じられたら、、
それに気づいて、この、受容の言葉でそれを包み込んであげましょう、、
「分かり得ない」 「分けられない」
この言葉は、、非二元性の扉を開く、ある意味で、魔法の言葉であるとも言えましょう、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ