推古天皇崩御から半年、次の天皇が決まらない中、
大臣(おおおみ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)が群臣の考えを確認したところ、
意見は大きく二つに分かれたという。

一つは、蘇我蝦夷を中心とする“田村皇子”派。

もう一つは、蘇我蝦夷の叔父・境部摩理勢(さかいべのまりせ)を中心とする“山背大兄王”派。

そこで、田村皇子の即位を画策する蘇我蝦夷は、
境部摩理勢を説得しようとしたようだ。

しかし、境部摩理勢は考えを変えず、
更には、蘇我氏の仮墓所を荒らすような事までしたという。

事ここに及び、とうとう蘇我蝦夷は軍備を調え境部摩理勢の邸宅を急襲。
境部摩理勢はあっけなく最期を迎えたのである。

こうしてようやく、田村皇子が即位。
舒明(じょめい)天皇の誕生となった。

推古天皇崩御から9ヶ月が経っていた。



歴史は常に動いている。