源頼義&清原武則、合計10000の軍勢は、それまで攻めあぐねていた安倍氏の柵を次々に落として行った。

そして僅か一ヶ月後、
1062年8月、難攻不落と言われた安倍氏の最重要拠点・厨川(くりやがわ)柵(現・岩手県盛岡市西方か?)が落ちた。

安倍貞任は捕らえられ源頼義の前に引き出されたものの、深手を負っていた為に頼義に一瞥をくれただけで絶命してしまったという。

また、安倍氏に寝返った元・国府官人の藤原経清は、逃亡を図ったものの捕縛され、
なんと、錆びた刀で斬首されたそうである。

ここに、遂に奥六郡の司と呼ばれた安倍氏は滅亡した。


歴史は常に動いている。