蔚山倭城、泗川倭城に押し寄せた明国・李氏朝鮮連合軍を撃退したのと時を同じくして、
半島南西部の順天倭城もまた、陸海から激しい攻撃に晒されていた。

この時、順天倭城に詰めていたのは、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅といった九州勢と、小西行長、
合計13700であった。

慶長3年(1598年)9月19日から21日にかけて、
50000を超える大軍による攻撃を受けたが、日本軍の鉄砲は的確に明国・李氏朝鮮兵に損害を与え、撃退した。

翌月、10月2日になると、再び陸海からの攻撃が始まったが、順天倭城の護りは固く、またも明国・李氏朝鮮連合軍は撃退される。

翌・10月3日の夜、明国水軍が上げ潮と共に順天倭城に迫ったが、戦いの最中に引き潮になり、座礁した軍船が日本軍に焼き撃ちにされたという。

4日にも続けて水軍による攻撃があったものの、順天倭城は揺るぐ事は無かった。

同年10月7日になると、遂に明国・李氏朝鮮連合軍は順天倭城攻撃を諦めて撤退したという。


歴史は常に動いている。





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