加藤清正が蔚山倭城を護り切った頃、
慶長3年(1598年)9月27日、釜山の西方・泗川古城を明国・李氏朝鮮連合軍、約40000が包囲した。

守将は島津義弘配下の川上忠実、僅か数百の兵だったという。

数の上では圧倒的不利だった川上忠実であったが、城外に撃って出ると、兵の約半数を失いながらも敵の包囲網突破に成功。
泗川新城を護る島津義弘と合流した。

この時、川上忠実は、明国・李氏朝鮮連合軍の兵糧焼き討ちにも成功している。

多数の兵糧を失った明国・李氏朝鮮連合軍は、長期戦が難しくなったようで、
同年10月1日、泗川新城への力攻めを始めた。

40000以上の敵に対し、約7000程の島津義弘は、鉄砲を効果的に使い、防備を固めていた。

また、城外に撃って出ては退くと見せ掛け、追って来た敵を左右から伏兵に襲わせる、
“釣り野伏せ”の戦法で次々と敵兵を撃退していったのである。

こうして、圧倒的多数だったはずの明国・李氏朝鮮連合軍は総崩れとなり撤退を始めた。

島津義弘は追撃戦で約30000もの敵兵を討ち取り、
“鬼島津”の名は朝鮮どころか明国にまで届いたという。


歴史は常に動いている。



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