小西行長は、尚州で身柄拘束した兵を使者として漢城(現在のソウル)に向かわせ、
李氏朝鮮が退くか戦うかの選択を迫った。
その返答を忠州で受け取る事になっていたそうなのだが、
天正20年(1592年)4月28日、
そこには武装した李氏朝鮮の騎兵が待ち構えていたという。
この騎兵を指揮していたのは、シンリツという武将で、北方女真族と戦い大いに名を上げていた者らしい。
シンリツは川を背にして、正に背水の陣を敷いて小西勢を待ち構えていた。
それに対し、小西行長は八割方の兵に旗指物を降ろさせ、少数の兵による先見隊の様に見せかけて、これを圧し包む様にして出てきた騎兵(所謂、鶴翼の様な隊形か?)に鉄砲の一斉射撃を加えたのである。
シンリツ率いる騎兵は堪らず退却したものの、再度突撃を敢行して来たので、日本軍は再び鉄砲で応戦の後、李氏朝鮮軍騎兵の唐竿(からざお※長い棒の先に輪、もしくは鎖で短めの棒を繋いだ物)vs日本刀による乱戦となった。
この戦いで日本軍は500程の損害を出したそうだが、李氏朝鮮騎兵を5000以上討ち取り、尚且つ敗走する騎兵は背にした川で多数の溺死者を出したという。
シンリツは退却に成功したものの、自刃したらしい。
こうして李氏朝鮮でも指折りの軍勢を退けた小西行長・宗義智を中心とする第一軍は、漢城に迫った。
そして、ほぼ時を同じくして、加藤清正・鍋島直茂を中心とする第二軍も東側から漢城に迫っていた。
歴史は常に動いている。
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李氏朝鮮が退くか戦うかの選択を迫った。
その返答を忠州で受け取る事になっていたそうなのだが、
天正20年(1592年)4月28日、
そこには武装した李氏朝鮮の騎兵が待ち構えていたという。
この騎兵を指揮していたのは、シンリツという武将で、北方女真族と戦い大いに名を上げていた者らしい。
シンリツは川を背にして、正に背水の陣を敷いて小西勢を待ち構えていた。
それに対し、小西行長は八割方の兵に旗指物を降ろさせ、少数の兵による先見隊の様に見せかけて、これを圧し包む様にして出てきた騎兵(所謂、鶴翼の様な隊形か?)に鉄砲の一斉射撃を加えたのである。
シンリツ率いる騎兵は堪らず退却したものの、再度突撃を敢行して来たので、日本軍は再び鉄砲で応戦の後、李氏朝鮮軍騎兵の唐竿(からざお※長い棒の先に輪、もしくは鎖で短めの棒を繋いだ物)vs日本刀による乱戦となった。
この戦いで日本軍は500程の損害を出したそうだが、李氏朝鮮騎兵を5000以上討ち取り、尚且つ敗走する騎兵は背にした川で多数の溺死者を出したという。
シンリツは退却に成功したものの、自刃したらしい。
こうして李氏朝鮮でも指折りの軍勢を退けた小西行長・宗義智を中心とする第一軍は、漢城に迫った。
そして、ほぼ時を同じくして、加藤清正・鍋島直茂を中心とする第二軍も東側から漢城に迫っていた。
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