寛正5年(1464年)11月26日、
兄・足利義政の要請に応じて還俗した義尋は足利義視と名乗り、時の管領・細川勝元の後見も得て、次期将軍の座は約束された…はずだった。

寛正6年(1465年)11月23日、
将軍・義政と正室・富子の間に次男・義尚(よしひさ)が生まれる。

既に将軍・義政は実弟・義視を養子として将軍職を譲る気でいたのだが、
正室・富子は実子・義尚を 次期将軍へと熱望した様で、
かつて“嘉吉の乱”で、6代将軍・義教を暗殺した赤松満祐を討伐した軍勢の総大将を務めた有力守護で、室町幕府四職(侍所所司を務める家格)でもあった
“山名宗全”に接近したという。

足利義視の後見人である細川勝元は、室町幕府三管領の家格であるが、嘉吉の乱以降、一族から8箇国の守護を輩出するまでになった山名宗全を自分と並ぶ実力者と認め、協調路線を取っていたのだが、
ここに来て次期将軍の座を巡って両者の間に微妙な溝が出来はじめていた…。


歴史は常に動いている。