永享の乱で関東公方・足利持氏が敗れ、持氏の遺児・春王丸&安王丸も結城合戦後に処刑され、安定したかに見えた関東であったが、火種は燻り続けていた。
その後、関東管領・上杉氏の統治と、それに対抗したい東国武士達による鎌倉府再興の嘆願という危ういバランスの上に有る関東を支配する為に、
宝徳元年(1449年)9月、室町幕府は鎌倉府を復活させ、新たに鎌倉公方を任命した。
新たな鎌倉公方は、結城合戦後に処刑された春王丸&安王丸の弟で、
永享の乱で敗死した足利持氏の四男・足利成氏である。
享徳3年(1454年)12月27日、事件が起こる。
鎌倉公方・足利成氏が、時の関東管領・上杉憲忠を自宅に招き、謀殺してしまったのだ。
成氏は、関東管領・上杉氏を、父・持氏の仇として機会を窺っていたようである。
享徳4年(1455年)3月、八代将軍・義政の側近として働いていた上杉憲忠の弟・房顕(ふさあき)が新たな関東管領に任命された後、
4月には足利成氏征討軍の大将として鎌倉に向かったが、戦いは足利成氏の優勢に進んだようだ。
その後、北関東で上杉勢と戦い続けていた成氏が鎌倉を留守にしていた隙を突き、幕府から上杉勢への加勢を命じられた駿河守護・今川範忠が鎌倉を占拠すると、
成氏は鎌倉を諦め、古河城(現・茨城県西端)に入ったという。
これに対し、将軍・義政は正式な鎌倉公方として、異母兄・足利政知(まさとも)を関東に下向させた。
しかし、政知は関東在住武士達の支持を得られず、鎌倉も廃墟同然となっていた為に、手前の伊豆・堀越に留まる事になってしまった。
結果、鎌倉公方は
古河公方と呼ばれる足利成氏と、
堀越公方と呼ばれる足利政知(こちらが室町幕府公認)の
二人が並立する事になってしまう…。
歴史は常に動いている。
その後、関東管領・上杉氏の統治と、それに対抗したい東国武士達による鎌倉府再興の嘆願という危ういバランスの上に有る関東を支配する為に、
宝徳元年(1449年)9月、室町幕府は鎌倉府を復活させ、新たに鎌倉公方を任命した。
新たな鎌倉公方は、結城合戦後に処刑された春王丸&安王丸の弟で、
永享の乱で敗死した足利持氏の四男・足利成氏である。
享徳3年(1454年)12月27日、事件が起こる。
鎌倉公方・足利成氏が、時の関東管領・上杉憲忠を自宅に招き、謀殺してしまったのだ。
成氏は、関東管領・上杉氏を、父・持氏の仇として機会を窺っていたようである。
享徳4年(1455年)3月、八代将軍・義政の側近として働いていた上杉憲忠の弟・房顕(ふさあき)が新たな関東管領に任命された後、
4月には足利成氏征討軍の大将として鎌倉に向かったが、戦いは足利成氏の優勢に進んだようだ。
その後、北関東で上杉勢と戦い続けていた成氏が鎌倉を留守にしていた隙を突き、幕府から上杉勢への加勢を命じられた駿河守護・今川範忠が鎌倉を占拠すると、
成氏は鎌倉を諦め、古河城(現・茨城県西端)に入ったという。
これに対し、将軍・義政は正式な鎌倉公方として、異母兄・足利政知(まさとも)を関東に下向させた。
しかし、政知は関東在住武士達の支持を得られず、鎌倉も廃墟同然となっていた為に、手前の伊豆・堀越に留まる事になってしまった。
結果、鎌倉公方は
古河公方と呼ばれる足利成氏と、
堀越公方と呼ばれる足利政知(こちらが室町幕府公認)の
二人が並立する事になってしまう…。
歴史は常に動いている。