嘉吉元年(1441年)6月24日に将軍・足利義教が討たれた後、
播磨に逃れた赤松満祐は、幕府からの討手に備えていたが、
その討伐軍が動き出したのは約2週間後の
7月11日の事であった。
この期間に赤松勢は迎撃準備を整えてしまい、討伐軍の総大将・山名持豊もなかなか京から動かなかった事もあり、その進軍は鈍かったようだ。
8月1日になると、管領・細川持之は朝廷に赤松満祐討伐の綸旨(りんじ)を奏請。
治罰綸旨が出されてから約一ヶ月後の
9月10日、討伐軍はようやく赤松満祐を自害に追い込み、戦いは終息した。
しかし、この嘉吉の乱により足利将軍家の権威は地に落ち、6代将軍・義教以前の守護大名合議の政治体制に戻りつつあった…。
歴史は常に動いている。
播磨に逃れた赤松満祐は、幕府からの討手に備えていたが、
その討伐軍が動き出したのは約2週間後の
7月11日の事であった。
この期間に赤松勢は迎撃準備を整えてしまい、討伐軍の総大将・山名持豊もなかなか京から動かなかった事もあり、その進軍は鈍かったようだ。
8月1日になると、管領・細川持之は朝廷に赤松満祐討伐の綸旨(りんじ)を奏請。
治罰綸旨が出されてから約一ヶ月後の
9月10日、討伐軍はようやく赤松満祐を自害に追い込み、戦いは終息した。
しかし、この嘉吉の乱により足利将軍家の権威は地に落ち、6代将軍・義教以前の守護大名合議の政治体制に戻りつつあった…。
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