東海・南海と二日連続の巨大地震が起こってから11ヶ月後の
安政2年10月2日(1855年11月11日)夜、江戸の街に漆黒の闇が訪れた頃、関東南部の狭い地域ではあったが、強い地震に襲われた。

江戸市中の被害は大きく、江戸城下の大名屋敷はほぼ半壊、そして日比谷から大手門、神田神保町といった谷を埋め立てた場所に在った大名屋敷では、全壊した所も少なくなかったという。

そして、地震のすぐ後には、30数箇所から出火が確認され、かなりの被害が出たようだ。

江戸町奉行の公式記録では、
倒壊家屋は14346戸
死者は4741人
と、なっている。

しかし、この数字は町人を管轄する町奉行の報告だけであるので、武家を含めると倍の数を超えると思われる。

亀有では、地震の最中、農地に小山や沼が出現したとされ、所謂“液状化現象”が起こったと推定されている。

因みにこの日、小石川の水戸潘邸の倒壊により、尊皇攘夷論者に多大な影響を与えたと言われている水戸学(本来は日本古来の伝統を調査していた)の学者・藤田東湖が圧死している。

この地震の被害の状況から、震源は江戸湾北部の荒川河口付近と考えられ、後に『安政江戸地震』と呼ばれ、前年の『安政東海地震』『安政南海地震』と合わせて
『安政三大地震』
と位置付けられている…。


歴史は常に動いている。