源頼朝に対する謀叛の意思有りと見做された
弟・範頼。

『鎌倉殿が倒れても、私が控えております…。』

と言った言葉が原因とされているが、何故こうも簡単にこの言葉だけで謀叛人扱いされてしまったのだろうか。

政子の告げ口がキッカケ…とも言われているのだが、即座に処断されたわけでは無い。

曽我兄弟の仇討ち直後、何故か鎌倉の街中を
『頼朝が討たれた!』
という誤報が駆け巡ったのが、
建久4年(1193年)5月29日未明。

範頼が頼朝に対し、二心は無いとする書状を書いたのが8月2日。

しかし、頼朝はその書状の中で範頼が、
“源範頼”
と、源姓を名乗っていた事を糾弾したという。
(範頼の母は、名も知れぬ遊女だそうだ。)

その後、8月10日の夜、
範頼の家人・当麻太郎が頼朝の寝所に潜んでいた所を捕らえられる。

詮議を受けた当麻太郎は、
範頼が書状を出した後、正式な沙汰が無いので探りに来ただけで、謀叛の意思は全く無いと答えたのだが、
範頼本人を問いただすと、もはや何も言う事は無いと覚悟を決めた様子だったという。

結果、頼朝は、範頼に謀叛の意思有りと断定し、
8月17日に伊豆修善寺に流罪としたそうだ。

この時代、“謀叛”という罪状で、事が起こってから処断されるまで
二ヶ月以上経過しているのは、甚だ不自然な事であるが、
これにはある陰謀、そして予定外の事態が関係している…可能性が有る。


歴史は常に動いている。