征夷大将軍・源頼朝の命により、建久4年(1193年)5月8日から始まった富士裾野での巻狩り。

曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父・河津祐泰の仇、今や鎌倉幕府御家人となっていた工藤祐経も必ず現れると考え、付近に潜んでいた。

すぐに工藤祐経の姿は確認できた。

しかし、昼間は数多くの武士達と一緒であった為、なかなか仇討ちの機会は訪れなかった。

そこで、兄弟は夜間の仇討ち決行の計画を立て、工藤祐経の寝所の場所を探ったという。

やがて、白糸の滝付近に張られた源頼朝の陣の近くに、目指す仇の寝所が在る事が判明する。

建久4年(1193年)5月28日の夜、
ついに曽我兄弟は工藤祐経の寝所に侵入。

酒を飲んで寝ていた工藤祐経を起こすと、初太刀を兄・十郎祐成が浴びせ、弟・五郎時致が止めを刺した。

この時、止めに使われたのは、かつて五郎時致が元服前、筥王丸と名乗っていた時代に、箱根権現で工藤祐経と遭遇した際に贈られた
“赤柄の短刀”だった。

みごと仇を討ち果たした曽我兄弟であったが、この騒ぎに気付いた武士達が集まってしまい、乱戦となってしまう。

兄・十郎祐成は、ここで十人斬りを果たすも、遂に力尽き、
御家人の一人“仁田忠常(にったただつね)”に討たれてしまった。

弟・五郎時致は、尚も闘いつつ、なんと征夷大将軍・源頼朝の寝所にまで押し入ったという。

しかし、五郎時致はここで遂に捕縛されてしまったのである。

そしてほぼ時を同じくして、不可解な事件が重なる…。


歴史は常に動いている。