671年、実子・大友皇子を太政大臣に任命した天智天皇は、程なくすると病に倒れたという。
この時、天智天皇は病床に
東宮皇太弟・大海人皇子を呼び寄せ、皇位を譲ろうとしたらしい。
日本書紀によると、この時に大海人皇子を呼ぶ為の使者として遣わされた
『蘇我安麻呂』という人物が、大海人皇子に対し、
“有意ひて言え”
(注意して発言なさいませ)
と、耳打ちしたとか。
結果、大海人皇子は天智天皇からの譲位を辞退し、出家して吉野へ去ってしまったという。
ここに出て来る『蘇我安麻呂』という人物は、かつて“乙巳の変”で滅ぼされた、蘇我蝦夷・入鹿を擁する蘇我本家の分流で、蘇我馬子の曾孫にあたる。
更には、後にその妹・蘇我娼子は、藤原不比等の最初の妻になったと言われている。
また、太政大臣・大友皇子のすぐ脇には、左大臣として蘇我安麻呂の伯父・蘇我赤兄(そがのあかえ)を据えていた。
天智天皇はあれ程敵対していた蘇我氏の一族を、何故か政権中枢に入れていたのである。
そうせざるを得ない程、天智朝の政権が危ういバランスの上に成り立っていたと思われるのだが…。
歴史は常に動いている。
この時、天智天皇は病床に
東宮皇太弟・大海人皇子を呼び寄せ、皇位を譲ろうとしたらしい。
日本書紀によると、この時に大海人皇子を呼ぶ為の使者として遣わされた
『蘇我安麻呂』という人物が、大海人皇子に対し、
“有意ひて言え”
(注意して発言なさいませ)
と、耳打ちしたとか。
結果、大海人皇子は天智天皇からの譲位を辞退し、出家して吉野へ去ってしまったという。
ここに出て来る『蘇我安麻呂』という人物は、かつて“乙巳の変”で滅ぼされた、蘇我蝦夷・入鹿を擁する蘇我本家の分流で、蘇我馬子の曾孫にあたる。
更には、後にその妹・蘇我娼子は、藤原不比等の最初の妻になったと言われている。
また、太政大臣・大友皇子のすぐ脇には、左大臣として蘇我安麻呂の伯父・蘇我赤兄(そがのあかえ)を据えていた。
天智天皇はあれ程敵対していた蘇我氏の一族を、何故か政権中枢に入れていたのである。
そうせざるを得ない程、天智朝の政権が危ういバランスの上に成り立っていたと思われるのだが…。
歴史は常に動いている。