天長4年(827年)、大僧都に任命された空海は、
翌、天長5年(828年)、東寺の東側に在ったという藤原三守の邸宅を譲り受け、
ここに“綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)”という私立の学問所を設立した。

因みに、藤原三守という人物は、当時の権中納言であり、天台&真言の応援者で、比叡山大乗戒壇の設立にも尽力していたという。
そしてその家柄は、既にかつての権勢は無くなってはいたものの、
藤原南家・武智麻呂(最終官位は朝臣のトップ・左大臣)の曾孫である。

綜藝種智院とは、当時としては画期的な教育施設であった。

つまり、当時は大学寮に代表されるように、教育と言えば、貴族の子弟の為の物であったが、この綜藝種智院は一般の人々にもその門戸を開いたという。

ただし、空海の理念は、仏教・儒教・道教の総合的な教育を、恒常的に続ける事だったというのだが、運営上の財政難の為なのか、そもそもの理想が高すぎて無理が有った為なのか、
残念ながら空海の死後10年程で閉鎖されてしまったらしい。


歴史は常に動いている。