弘仁4年(813年)11月、
光定と円澄が比叡山に戻るも、泰範だけが戻らずにヤキモキしつつも、最澄は
『理趣釈経』
という経典の借用を空海に求めたという。
ところが、ここまで最澄の求めに応じ密教経典や書籍を貸し、折に触れ質問に逐一答えていた空海が、遂に限界に達してしまったらしい。
空海は最澄に、
『何故、あなたは自身の中に有る真理を観ようとせずに、文書(紙資料)ばかりを追い求めるのか?』
と言って、理趣釈経の貸し出しを拒否したようだ。
そしてこれ以降、二人の交流が無くなったという。
よく世間では、最澄と空海がこの理趣釈経の件と、弟子・泰範の事が原因で
“ケンカ別れ”
したと云われているが、これは少し早計と思われる。
なにしろ“学者気質”の最澄、全く悪気が無いのである。
かつて、南都六宗の僧侶達に法華経の講義をしたくらいの人物である。
紙資料を全て読破した上で、その意味を解釈する術を探る…といった、研究者・学者としては当然の手順を踏んだだけであろう。
対して空海は、研究者ではなく、正に
“修行者”
であり、自分自身も未だ修行中の身であり、何でもかんでも質問するな!
という事だったのだろう。
始めから立っている土俵が違い、行く道が違っただけの事であろう。
やがて二人は、言うなれば“別々の山の頂き”に立つ事になる。
歴史は常に動いている。
光定と円澄が比叡山に戻るも、泰範だけが戻らずにヤキモキしつつも、最澄は
『理趣釈経』
という経典の借用を空海に求めたという。
ところが、ここまで最澄の求めに応じ密教経典や書籍を貸し、折に触れ質問に逐一答えていた空海が、遂に限界に達してしまったらしい。
空海は最澄に、
『何故、あなたは自身の中に有る真理を観ようとせずに、文書(紙資料)ばかりを追い求めるのか?』
と言って、理趣釈経の貸し出しを拒否したようだ。
そしてこれ以降、二人の交流が無くなったという。
よく世間では、最澄と空海がこの理趣釈経の件と、弟子・泰範の事が原因で
“ケンカ別れ”
したと云われているが、これは少し早計と思われる。
なにしろ“学者気質”の最澄、全く悪気が無いのである。
かつて、南都六宗の僧侶達に法華経の講義をしたくらいの人物である。
紙資料を全て読破した上で、その意味を解釈する術を探る…といった、研究者・学者としては当然の手順を踏んだだけであろう。
対して空海は、研究者ではなく、正に
“修行者”
であり、自分自身も未だ修行中の身であり、何でもかんでも質問するな!
という事だったのだろう。
始めから立っている土俵が違い、行く道が違っただけの事であろう。
やがて二人は、言うなれば“別々の山の頂き”に立つ事になる。
歴史は常に動いている。