欽明天皇に仏像や経典を贈った百済の聖明王だが、
554年、新羅との戦いで戦死してしまったという。
それまでに百済は倭に対して援軍要請を幾度となくしていたようだが、結局、倭軍が出兵した頃には既に聖明王はこの世に亡く、
562年までに新羅によって任那は併呑され、倭は朝鮮半島での足掛かりを失ってしまったのである。
『日本書紀』に書かれている、
“552年の仏教伝来”
という記述は、百済の聖明王が存命中に、倭から援軍をだしてもらう為の見返りとして仏像&経典をもたらしたとする考えを定着させる意図が有ったのでは?
とする説もある。
どうあっても、倭は半島諸国よりも格上だと示したかったのだろう。
歴史は常に動いている。
554年、新羅との戦いで戦死してしまったという。
それまでに百済は倭に対して援軍要請を幾度となくしていたようだが、結局、倭軍が出兵した頃には既に聖明王はこの世に亡く、
562年までに新羅によって任那は併呑され、倭は朝鮮半島での足掛かりを失ってしまったのである。
『日本書紀』に書かれている、
“552年の仏教伝来”
という記述は、百済の聖明王が存命中に、倭から援軍をだしてもらう為の見返りとして仏像&経典をもたらしたとする考えを定着させる意図が有ったのでは?
とする説もある。
どうあっても、倭は半島諸国よりも格上だと示したかったのだろう。
歴史は常に動いている。