二つのものから、一つのものへ | 吉祥院 ~茨城県石岡市(旧八郷町)で約900年続く真言宗豊山派のお寺ブログ(お坊さんのことば)~

吉祥院 ~茨城県石岡市(旧八郷町)で約900年続く真言宗豊山派のお寺ブログ(お坊さんのことば)~

茨城県石岡市にある真言宗豊山派の摩尼山吉祥院です。
ふるさと茨城路百八地蔵尊霊場第九十一番札所に指定されており、
開山約900年の歴史を持つ由緒ある寺です。
境内の四季折々の風情や仏教について、幅広い情報を発信するお寺ブログです。

現実世界では多くの対立があります。

一般社会の中にもありまた、

民族間や国家の間での対立は

紛争に及ぶこともあります。

あるいは、宗教や哲学では

概念的に捉えた対立関係もあります。

 

哲学、宗教の分野から見ると

神と人間、聖なるものと俗なるもの、

主体と客体というような構造が考えられます。

一神教では、これらの対立関係に

明らかな一線が引かれていますが、

 

仏教などの宗教では、

このような関係が本来的には

一つのものであると考えます。

しかし、そのことを直接に示すことは

難しいので、

煩悩と悟り、身体と心、一と多などと

二元的な概念を示してきました。

 

確かに常識的には、あらゆるものが

対立関係におかれ、物事を二元的に

考えることで日常生活が成り立ちます。

自と他がもともと別であり、ましてや

神や仏の世界は、われわれとは全く別の

ところにあると考えるのが普通だと思います。

 

苦の反対は、楽です。

誰もが苦を離れたいと思い、

楽を求めようとします。

そのように苦は楽の反対のものと

考えています。

 

しかし前には苦と感じていたことが

今では、楽に感じることがあるはずです。

逆に昔、楽に感じていたことが

現在では苦に感じることもあると思います。

 

そのように一見して、対に見えることも

本来的には一つで区別あるものでは

ないことを、人間は、性質上、どうしても

二元的に分けて捉えてしまいます。

 

仏教では、二元的概念を一元的なもの

として見ることを不二(ふに)とか

如(にょ)などといいます。

あるがままの状態を真如(しんにょ)と

言ったりもします。

 

自我意識があることで、物事を分けて

捉えてしまいますが、それを否定して

「無我」を説くというのは

仏教の重要なところです。

「無我」の状態では、対立の概念はなくなって

自と他を分けて捉えることはありません。

そこに慈悲の精神の原点があります。

 

また、自と他を仏教では、

「能」と「所」として表します。

能(自)と所(他)という観念が

全く消え去った状態を悟りの境地とします。

その境地に至るために

ヨーガ(瑜伽)の修行を

行うことが経典などに説かれています。

 

ヨーガの行では、

自分(行者)とご本尊(仏様)が

一体であることを観想します。

そのようにして、二元的に物事を

捉えることをなくし、本来的には

あらゆるものには区別がなく

一つであるということを体得することが

仏教修行の根幹であるといえます。