経典の成立 | 吉祥院 ~茨城県石岡市(旧八郷町)で約900年続く真言宗豊山派のお寺ブログ(お坊さんのことば)~

吉祥院 ~茨城県石岡市(旧八郷町)で約900年続く真言宗豊山派のお寺ブログ(お坊さんのことば)~

茨城県石岡市にある真言宗豊山派の摩尼山吉祥院です。
ふるさと茨城路百八地蔵尊霊場第九十一番札所に指定されており、
開山約900年の歴史を持つ由緒ある寺です。
境内の四季折々の風情や仏教について、幅広い情報を発信するお寺ブログです。

お釈迦さまの滅後、

教団を統率したマハーカッサパ(大迦葉)は、

一人の比丘がこう言ったのを聞いたといいます。

 

「仏が生きていた時はいろいろと束縛されたが、

これからは自由になった」

 

マハーカッサパは、仏滅後まもなくして

このような言葉が出てくることに悲しみ、

同様の弟子が現れてこないように

いち早く、法と律を決めなければならないと考えました。

 

そこで、釈尊を荼毘に付した後、

教団の統一をはかるべく、弟子たちを集めて

教えを編纂する会議を開きました。

伝えに依れば、ラージャガハ(王舎城)の郊外に

500人の阿羅漢(煩悩を滅した聖者)が

集まったといわれます。

 

そこでは、釈尊の説法を聞くことが特に多く、

多聞第一と呼ばれたアーナンダ(阿難陀)が

教え(経)を説き、

持戒第一と呼ばれ、戒律に精通していたウパーリ(優波離)が

教団における規律(律)を説き、

その他の阿羅漢たちが

それを認めるという形式だったとされます。

 

この集まりを「第一結集」といい、

その後、第二、第三結集が開かれ、

経に対する見解である「論」も成立しました。

 

様々な経典が現存しますが、

経のはじめは基本的には「如是我聞」という体裁に

なっています。

私はこのように聞きました、ということを示すものですが、

結集は、アーナンダが直接釈尊から聞いた内容を

唱えて、それを皆が認めるという形式であったので、

経典の体裁もそのようになったのです。

 

また、そのときすぐに教えが文字に写されることは

ありませんでした。

200年ほどは、弟子たちが暗記して保持していたのです。

 

元々、釈尊は文書化することを許可していませんでした。

また、文字を記すことで教えが自分から離れてしまい、

教えに対する敬意が失われると考え、

体で覚えるようにしていたともいわれます。

 

それで憶えやすいように韻律のある詩(偈)の形で

記憶していたのです。

その形が、現存の経典にも残されています。