#少々直して、再度公開にしました。

ご無沙汰しております(^^)

とても暑い日が続いていて、
体調を崩される方もおられるようで。。。

ぜひとも身体のほう労わって
お過ごしいただければと思います(^^)


ブログのほう、少し書くのが空いてしまった間に、
中国地方を中心に大きな水害もあり。

テレビなどのニュースで、
真備町が大変な被害を出したと。

大学の同級生がいるところで。
犠牲者のリストには彼の名前はなかったが、
彼の家も被害に巻き込まれたのだろうと思われ。

遠地の僕は、何をしてあげられるわけでもないのだけれど、
無事に元気でいてくれれば..、と思います。(祈)


・・・


さて、話は変わって。

僕が密かにフォローしている
ACIM(奇跡講座)学習者の方のブログがあって。

今回はそのブログへのリンクは差し控えますが、
ある意味とても「控えめな方」で。


その方(Tさん)の書かれるブログにはときどき、
聖霊の声が聴こえないけど、とか、
自我を優先して聖霊が勧めることをやれていないかも、とか、
正解が分からない、とか、
そんなトーンのことが書かれているのです。

ブログを読んでいると、お人柄がよく出ていて、
誠実で、とても慎重かつ丁寧にものごとを見ておられるので、
そういう表現とか捉え方をされるのだろうし、

そう書きたくなる気持ちは、何となく想像は出来るし、
それはそれで良いのだろう、とも思うのですけど...。



で、そのTさんの今日のブログを読んで、
僕は少々涙を流したわけです。

今日のTさんのブログには、
「確かにこれは導かれているなぁ~。
 見せてもらっているなぁ~。」
と思えるようなエピソードが書かれていたのですが、
そのことに対するTさんの受け取り方が
何とも慎重で..、じれったい。
#じれったい=もどかしい、ですね。


僕の目から見るとTさんは、

めっちゃ愛されている人

のように見えるのです。


誰に愛されているか、というと..、

ACIM的に言えば神とか聖霊、という表現だろうし、
仏教者であれば、仏の手、という表現かもしれないし、
スピリチュアル的には、全的なるものとか、一なるものとか、聖なるものとか、
僕の好きな表現でいえば、導き手とか、
もうひとりの自分、僕の反対側にいる自分、といってもいいし、
「本当のところはどうなの?」と聞かれたら
「僕にはわからない」という回答になるけど、
そんなことはどうでも良く、
いずれにせよ、
途轍もないものから愛されていて。


でも、受け取り方がとても慎重で。
 私はまだまだだから、
 これからももっとひたすら
 ACIMの教えを学んでいかないと...、
みたいなトーン。


なので、ブログを読んでいるうちに、
じれったく感じてきて。

文脈が飛んで分かりづらくなるかもしれないけど、
一言で書いてしまうと、

神から愛されているんだから、それでいいだろ?

その愛をハートに感じて、悦びに満ちて泣けばいいだろ?

...と、めっちゃ言いたくなったのです。



言いたくなったのだけど...。

でも、伝わらないときには伝わらない、
というのも、そうなんです。


僕の思考では、
そういう愛と喜びの物語がイメージされて。

「帰り道は、喜びの道」というのも、
ある意味思い込みかもしれないけど、
赦しは僕たちをそういう喜びに導くものだと思っていて。

ただ一方で、
知覚の変容とか、受容とか、理解の深化に
時間がかかるのは、この世の常で。



Tさんはきっと、
それがすぐそこ見えるはずなのに..。

まだしばらく時間が要るのか...。

神に導かれているのに..。

神に愛されているのに..。

そのことが分かれば、もう十分なのに...。



だから、何ともじれったく感じるのです。


・・・


なんだか人様に見せても
「なんのこっちゃ」
的な内容かもしれなくて。

こういう物事の捉え方は、
悪く言えばやはり陶酔的でもあって、
幻想といわれればそうなんですけど。

でもその物語は、
見えざる導きの手により用意された幸せな物語であり、
その物語を喜んで受け入れれば良いのではないか、
と僕は思ったりするわけです。


#なんだかんだと書いていますが、
#結局自分に向けて書いているんだろうな..、
#とも思います。