『いじめ』について少し考えてみる 其の5 | 40代ができること

40代ができること

覚書のようなもの

数回に亘り『いじめ』について書いてきた。 簡単に結論づけれる問題ではなく、今後も思考を続けていくべき事であるが、とりあえず今回で最終回とする。


最終回は、『いじめ』問題についての取り組みについて少し書くことにする。


まず、結論を言うと。 いじめを受けない様にする為には、親友を作る事。 そして、自分がされて嫌な事は人にしない事。 という、非常に当たり前な事を、当たり前に日常に取り入れる事である。 中には、極端に個性的な方もいるだろう。 極力同じ思考の社会へ合流する事を勧める。 そして、最も重要なのは、いじめている側(本人)の問題である。 当事者はその行為についての痛みが分らない。 本質的に痛みを知るにはそれを経験しなければ理解は難しいであろう。 が、好んで経験すべき事ではないのもたしかだ。 これは、最近見かけなくなった、教育ではなく、教養の部分である『道徳』や『倫理』を家庭の中で身につけさせていく親や、周囲の者の努力が必須なのである。 大人は子供に向き合わなければならない。 大人がいつまでも子供であるかぎりこの問題は解決する事はないであろう。


親の話が出たので、少し。


『保護者の知る権利』が、学校の個人情報保護を言い訳とした非公開によって侵害され、結局訴訟をしてもお金しか取れないのが現状だ。 昨今では、、いじめ調査・紛争処理委員会を各市町村に第三者機関として設置し、6~8人の弁護士・識者らからなる住民の推薦によって選ばれた教育委員会とは独立した委員会がこの紛争処理に取り組んでいる自治体が増えてきた。 委員会は地方自治体法に基づき、学校に資料を提出させる権利を持ち、問題の早期解決や、斡旋、調停などの役割をになっている。 しかし、実際には相談に行くという行為自体ができないのが現状。 又、プライバシーと青少年保護法の基、追い討ちをかける個人情報保護法により問題を解決するのではなく、問題を終了させる機関に成り下がっている。 被害者側の権利を片手落ちさせたこの保護がうわべだけの社会を助長しているように見えてならない。 これも上記同様、向き合わなければならないという結論に辿り着く。


では、どうすればいいのか? 


いじめをなくすには、実際にいじめがどのようなものかを体験し知る必要がある。 経験は、できるだけ低年齢の時に行うのがよい。 実際に『いじめ』を経験した人とない人では、温度差が激しい。 私のいう体験とは教養としてのロールプレイ(疑似体験)による、『いじめ』の認識である。


 例えば、数人ずつのグループが、「パシリ」「陰口」「悪口」「いやみ」「プロレスごっこ」「暴力」「シカト」「万引きをさせる」「葬式ごっこ」などの実演をして、それぞれについて『いじめ』か『いじめではない』かに分かれて議論をするものです。 もしも意見が割れない場合は、教員・指導者が反対論に立つ。 そして、お互いの立場からの「言い訳」を聞き、相手がどういう思いで行動しているのか を認識する。 なぜ?の部分を理解するのである。 私は『いじめ』に対して、被害者・加害者というのは根本的にはないと思っている。 お互いに欠損する部分があるのだ。 通常、立場的に弱い者が擁護されるが、果たしていじめっ子が本当に悪いのであろうか? その結論に至るプロセスを蚊帳の外において、結果だけを見、判断する。 これこそが二元論といわずして何というのであろう。 別記事でも書いた二元論の極論性は無意識の基本的観念にとりこまれているといえるだろう。 自分が嫌いな相手が、自分の事を好きなわけがないという、当たり前を知らないという幼稚さは現代の若者に蔓延している。 そして、その観念は社会生活の中で脱却されていくべきなのであるが、精神的年齢の低齢化はそれを遅滞させる。 なぜ、こうなってしまったのだろう。


『いじめ』という一つの社会問題をとりあげ、そのプロセスについて書いてきた。 あきらめという行為が市民権を得、時間がスローになっている。 人間とは寿命のある生物である。 その特異性をしっかりと理解し、行動せねば、ただのミジンコになりさがってしまう。


色々と書いてきて、私が言いたかった事は


自分に目を背けず、自分自身に向き合え。


世界一の詐欺師でも、自分をだます事は出来ない。 何の為になんて考える必要はない。 正義の人であろうと、腹黒い偽善者であろうと、それが自分なのであれば、向きあうのだ。 その時、自分の事が好きでいられるなら、今の社会はもっと違ったものになるだろう。




あ、ちなみに私は、結構腹黒い自分が好きだったりするのは・・・ 蛇足だな(あぁ、肩がこったw