40代ができること

覚書のようなもの


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まずは、1枚目



これでわかるのは現地へ行ったことがある人と思う


2枚目はこれ



有名な温泉地


そして、核心に迫る3枚目



のぼりに重大な手掛かりが!!!




フフフ わからずに頭の抱えている姿が目に浮かびますなぁ・・・ニヤリ

それでは、また To be Next...
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ブログを書くのはひさしぶり。

またしばらく遊びの ひとつ として再開してみたいな。

今回は、いい子ちゃんを演じるつもりが最初からないので 

気分を害する方がいらっしゃれば

どうかスルーしてください

と、最初に書いてあるんだけどねと言い訳を事前にしておくビビりだったりして。

それでは、どうぞ しばしのお付き合いを よろしく。
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「あなただけ特別に、おいしいお話があるのです。」


何故、こんな幼稚な勧誘に簡単に引っかかる人が多いのだろうと考えた。


結論からいえば、それは「 プライド 」なのではないかという所に行き着いた。


自分を普段から特別だと認知している人は、少なくとも注意深い。


そんな事を考えもしない凡人が突然特別扱いされると、そのシュミレーションが出来なくなり麻痺する。


一度、舵を取り損ねると修復までに少なからず時間がかかる。


その時に事故を起こさせ易い。


自分は特別なんだという自己暗示をかけるのに必要な要素は、そう、「プライド」である。


プライドとは何の裏づけがなくとも誰もが簡単に持つことが出来るものであり、その大小は計り知れない。


知人が 「信者」 から 「儲」け に変貌していく姿は見ていてあまり面白いものではない。


やくざ な人を好きになったOLに、やめておけと言って聞かせるぐらい、耳には入らないであろう。


せめて健康だけは祈っておこうと思った。

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朝起きて、会社に行く。


家に帰るまで家族の顔を見ることはない。


その間、嫁は、娘は、


どうしているんだろう。


日常で、それを考える事はない。


反復すればするほど、それに気をとめる事はなくなる。


どうしているんだろう。


どうしていたろころで、それに対してなにかアプローチをするわけでもない。


どうしているんだろう。


昼寝しているなら、ちょっとうらやましい。


どうしているんだろうと思うスパンが短い程、絆は深く紡がれているのかもしれない。


ただ神経質で気が小さいだけなのかも知れないという見解は、見て見ぬ振りをしよう。

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自分自身に自信を持っているものは、そのことを表には出さないが、その事に固執する。


一つ上のクラスで底辺にいるのと、一つ下のクラスでトップにいるのとでは、結果が違う。


自信を持っているものは未知のものを理解できるという暗示をかける。


その暗示が解けないように、ある者は自虐し、ある者は責任転嫁する。


手の上で転がしているつもりでいる者が、もっとも転がされやすい。


転ばないのではなくて、転べないだけである。


転ばなければ、痛みは理解できない。


痛みを理解できなければ、成長はない。


成長しなければ、その固執はただのマスターベーションでしかない。


特別な存在なのではなく、当たり前の存在である事の方が重要であることに気がつけるだろうか。


年はとりたくないものだw

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日常当たり前にあるものへの感謝の気持ちは、それを失った時に実感する。


盆休みに、子供や、友人とバーベキューをしに出かけた。


久しぶりの自然に子供心がくすぐられ、目の前の「木」にどうしても登りたくなった。


試行錯誤しながら眺める事のできたその風景は、自分の思い描いていた通りでとても爽快であった。


ふと、下を見ると手を振る友人の姿が見える。


そこで、私は勘違いした。


その時の私は、木登りをして遊んでいた頃の私だった。


何のためらいもなく、「とぅ♪」と、飛び降りる。


途中で気がついた。


あ、着地するまでの時間が思っていたより長い。


はい、捻挫しました。


何歳だと思ってんのあんたは! と嫁からは、怒られ。


きびちゃん、相変わらずやる事が若いネェ と友人からはからかわれ。


足首の痛さに悶絶しながら、痛くないもん!な顔をしていた。


30代はおじさん世代だと、20代の頃は当たり前の様に思っていた。


その世代になると、自分がおじさんになっている事に気がついていないことを知る。


年は心でとるのだと、森昌子は言っていた。


心が年をとらなければ、いつまでも青年でいられるのだと信じていた。


でも、実際、体の老化は抑えられないようである。


痛い足首をさすりつつ、この記事を書いている私は、いったい何歳なのであろうか。


認識によって、老化は抑制できるのであろうか。


気持ちだけは若くではいけない。


行動が伴わなければならない。


それは、他の事についても同じだ。


思っているだけでは、実は何もかわらないのだと、実感した。

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物事を考える行動において、問題を解決する為に迅速な回答を求められる場合がある。


走りながら考えればいい。 まずは行動する事だ。 とは言うものの、


実際走ってみると、どうも思考能力が低下するのだろうか、なかなか考えがまとまらない。


うん、ちょっとまって、今考えてるから。 と言う時ほど、頭の中が真っ白な時はない。


思考するとはどういうことなのであろうか。


ある、一人が暫く思考する時間に入るようだ。 それは、座禅みたいなものだろうか。


思考には方向性の位置づけが必要である。


闇雲に考えを膨らませると、それは答えの出ない大きな風船と化すだけである。


風船はいつか割らなければならない。


どこを割るのか、どこで割れるのか。


ひとつ言える事は、風船を膨らますのは、やはり自分しかいないのだ。


慌てると風船は膨らまない事を、ご存知だろうか。


口の中に空気を貯めて、それを押し込むのが上手く膨らますポイントである。


思考には、それに伴う予備時間を持つ事も忘れてはならないと感じる。

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数回に亘り『いじめ』について書いてきた。 簡単に結論づけれる問題ではなく、今後も思考を続けていくべき事であるが、とりあえず今回で最終回とする。


最終回は、『いじめ』問題についての取り組みについて少し書くことにする。


まず、結論を言うと。 いじめを受けない様にする為には、親友を作る事。 そして、自分がされて嫌な事は人にしない事。 という、非常に当たり前な事を、当たり前に日常に取り入れる事である。 中には、極端に個性的な方もいるだろう。 極力同じ思考の社会へ合流する事を勧める。 そして、最も重要なのは、いじめている側(本人)の問題である。 当事者はその行為についての痛みが分らない。 本質的に痛みを知るにはそれを経験しなければ理解は難しいであろう。 が、好んで経験すべき事ではないのもたしかだ。 これは、最近見かけなくなった、教育ではなく、教養の部分である『道徳』や『倫理』を家庭の中で身につけさせていく親や、周囲の者の努力が必須なのである。 大人は子供に向き合わなければならない。 大人がいつまでも子供であるかぎりこの問題は解決する事はないであろう。


親の話が出たので、少し。


『保護者の知る権利』が、学校の個人情報保護を言い訳とした非公開によって侵害され、結局訴訟をしてもお金しか取れないのが現状だ。 昨今では、、いじめ調査・紛争処理委員会を各市町村に第三者機関として設置し、6~8人の弁護士・識者らからなる住民の推薦によって選ばれた教育委員会とは独立した委員会がこの紛争処理に取り組んでいる自治体が増えてきた。 委員会は地方自治体法に基づき、学校に資料を提出させる権利を持ち、問題の早期解決や、斡旋、調停などの役割をになっている。 しかし、実際には相談に行くという行為自体ができないのが現状。 又、プライバシーと青少年保護法の基、追い討ちをかける個人情報保護法により問題を解決するのではなく、問題を終了させる機関に成り下がっている。 被害者側の権利を片手落ちさせたこの保護がうわべだけの社会を助長しているように見えてならない。 これも上記同様、向き合わなければならないという結論に辿り着く。


では、どうすればいいのか? 


いじめをなくすには、実際にいじめがどのようなものかを体験し知る必要がある。 経験は、できるだけ低年齢の時に行うのがよい。 実際に『いじめ』を経験した人とない人では、温度差が激しい。 私のいう体験とは教養としてのロールプレイ(疑似体験)による、『いじめ』の認識である。


 例えば、数人ずつのグループが、「パシリ」「陰口」「悪口」「いやみ」「プロレスごっこ」「暴力」「シカト」「万引きをさせる」「葬式ごっこ」などの実演をして、それぞれについて『いじめ』か『いじめではない』かに分かれて議論をするものです。 もしも意見が割れない場合は、教員・指導者が反対論に立つ。 そして、お互いの立場からの「言い訳」を聞き、相手がどういう思いで行動しているのか を認識する。 なぜ?の部分を理解するのである。 私は『いじめ』に対して、被害者・加害者というのは根本的にはないと思っている。 お互いに欠損する部分があるのだ。 通常、立場的に弱い者が擁護されるが、果たしていじめっ子が本当に悪いのであろうか? その結論に至るプロセスを蚊帳の外において、結果だけを見、判断する。 これこそが二元論といわずして何というのであろう。 別記事でも書いた二元論の極論性は無意識の基本的観念にとりこまれているといえるだろう。 自分が嫌いな相手が、自分の事を好きなわけがないという、当たり前を知らないという幼稚さは現代の若者に蔓延している。 そして、その観念は社会生活の中で脱却されていくべきなのであるが、精神的年齢の低齢化はそれを遅滞させる。 なぜ、こうなってしまったのだろう。


『いじめ』という一つの社会問題をとりあげ、そのプロセスについて書いてきた。 あきらめという行為が市民権を得、時間がスローになっている。 人間とは寿命のある生物である。 その特異性をしっかりと理解し、行動せねば、ただのミジンコになりさがってしまう。


色々と書いてきて、私が言いたかった事は


自分に目を背けず、自分自身に向き合え。


世界一の詐欺師でも、自分をだます事は出来ない。 何の為になんて考える必要はない。 正義の人であろうと、腹黒い偽善者であろうと、それが自分なのであれば、向きあうのだ。 その時、自分の事が好きでいられるなら、今の社会はもっと違ったものになるだろう。




あ、ちなみに私は、結構腹黒い自分が好きだったりするのは・・・ 蛇足だな(あぁ、肩がこったw

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もう4回目になるのですね。 さて、今回はいじめ行為が及ぼす結果の話です。


いじめ行為のもっとも悲惨な終焉の一つに『自殺』があります。


まずは、参考資料

http://ms-t.jp/Domestic-statistics/Data/Transition-statistics.html#Suicide


上記資料からもわかるように、2003年の自殺者は3万4427人で、過去最多(厚生労働省:2005年1月28日発表) 


数をいってもピンとこないので例を挙げると、アメリカで犯罪で死ぬ人の人口よりも日本の自殺者数の方が多い。 ちなみに、米国は日本の10倍以上、20倍ちかい殺人事件がある。


グラフ


1日平均自殺死亡数を月別にみると、4、5月にピークがある年が目立ち、特に2003年は4月103.2人、5月100.3人と100人を超えていた。 また、年度の変わり目である4、5月が特に多い。


参考資料2 自殺死亡統計の概況<厚生労働省サイト>
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/index.html


自殺の原因は色々とあるようですが『いじめ』によって尊い命を失う人も多数いる。 なぜ、いじめで死ぬのか? 突き詰めれば、やはり人との繋がりと言える。 人は、関係の中で生きてる。 基本的に、『いじめ』とは、1対多数で形成される。 その際に、相談できる人がいれば、心強さが増し、いじめは解決する場合が多い。 自殺までいく大半は、相談できる人がいない場合である。 会社・学校で、いじめられ、先生・上司にも、親友にも相談できず、家では親・家族にも相談できない。 この関係の欠如により、自殺をするのだと考えられる。

 

参考資料より、もう少し踏み込む。 『いじめ』の開始時期に多いのが、5、6月、つまり、ある程度人間関係ができ、小規模なグループが形成される時期である。 これは、親しい友達が大体決まる時期ともいえる。 その時期に、グループ同士で対立をしたり、グループ内で対立をしたりする事がある。 些細な意見の衝突も含まれる。 ここに、上記の、人間関係の欠如が加わる時、『いじめ』が発症する可能性が非常に高くなる。 「あぶれ」てしまうのである。 この時期に形成されたグループはほぼ体系を変える事無く推移する。 つまり、形成外者は、参入する事が困難になる。 友人・親友・話し相手を作りたくても相手がいないのでは、取り付く島もない。 そして、年度が替わる時、環境もかわると信じ、ぐっと我慢し乗り切る。 年度が替わる時、我慢するという人格が形成され、また同様の年が繰り返される。 そして、その現実に落胆・失望した時の衝動的行為の一つが自殺といえるであろう。 もぅ、いいや・・・ である。


生活習慣は蓄積される。 「我慢する」も当然蓄積される。 そして、本位ならぬ性格を確実に形成する。 形成されたものはその変化に多大な苦痛と労力を必要とする。 タバコをやめれないのも一つかもしれない。 今までこれでこれたのだから、もういいと、世間からの被害者的妥協線を引いた時、そこに現代社会問題の一つである「ニート化」が具現化してくる。


相変わらず話が、あっちこっち行ってるので、今回をまとめると、『いじめ』とは習慣病の一つでは無いかという観点。 そして、その改善に必要なものは、人に関わろうとする人間関係への興味である。

人に興味の無い人間は、人と交流する事はできない、まして人を好きになる事など出来ないのである。


なんだか、無理やり結論づけてしまった(汗 次回をとりあえずの最終回としよう。 

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三回目の今回は、当事者以外の普通の人について考えてみる。


目の前、あるいは、周囲にいじめの存在を認知し、その状況を傍観している場合。 直接関係していないのだから、無関係という正当化がなされるであろう。 しかし、傍観者=いじめっ子なのである。


自分には関係ない、また自分を巻き込まないで欲しいと逃避する。 その行為自体がいじめを助勢しているのである。


私はやっていないは、直接手を下していないであり、関係無いは、存在を知っているが自分がターゲットになりたくないので潜んでいるである。


これは言い換えると「偽善」なのである。


この偽善が正当性を楯にする為、いじめがメビウス化するのである。


悪いのは、私ではなく、やっている者と、やられている者であるという理屈だ。


この観念が基軸になっているかぎり、いじめは決してなくなることはないだろう。


いじめ行為において被害者のうけた被害と、加害者の行ったことを天秤にかければ、当然、いじめっ子が悪いという見解になる。


しかし、いじめられやすい人と嫌われる人というのは、ある程度、共通点(理由)がある。


もちろん、外国人だからという単なる差別の要素も存在する。


先日の、排日運動がいい見本である。


また、正義感や倫理感から「自己中心的」・「わがまま」・「ぶりっこ」などへの反感・嫌悪感が、それを「悪」とし除去しようとする心や行為が発症する場合もある。 理由付けはもっともらしいが、これもいじめと同意なのである。


いじめがこれ程までに問題になる最大の原因の一つは、無関心を装った偽善が正当な行為として世論に批判される対象ではないと言うことだ。


この問題について、真剣に考えるという行為を行う事がいじめ行為を無くす為の最初の一歩であるといえよう。 (続く)

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