対北朝鮮外交 文化で閉塞状態を打破しては?(下) | 朝鮮問題深掘りすると?

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初老の徳さんが考える朝鮮半島関係報道の歪み、評論家、報道人の勉強不足を叱咤し、ステレオタイプを斬る。

アメリカを代表する安全保障問題の専門家で、かつて外交で指導力を発揮したジョセフ・ナイ元米国務相安全保障政策担当次官補は、世界最強の武力を持つアメリカが、それに見合った指導力を発揮できないでいる原因をソフト・パワーの弱化に見い出し、アメリカがその国力に見合った指導力を発揮するためにはハード・パワーとソフト・パワーを兼ね備えたスマート・パワーを充実させるべきだと主張した。


他方で、政治の閉塞感を打ち破る有効な手段として文化が語らえてきたことを想起した場合、まさに文化的アプローチこそ、対北外交が現在陥っている閉塞状態から抜け出せる、もっとも効果的な方法だといえないだろうか?ナイの言うソフト・パワーがまさに文化という概念に包摂できるものであることを想起したい。


昨年ニューヨーク・フィルハーモニーがピョンヤンで公演し、米朝両国の国家を演奏し国旗を掲げた。ニューヨーク・フィルのピョンヤン訪問を描いたドキュメントのCDが作られアメリカで発売されたが、それを見たとき私は何ともいえない感動にさらされた。


両国歌が極めて荘厳な雰囲気の中で演奏され、ニューヨーク・フィルとピョンヤンの芸術家が共同で弦楽8重奏を奏でたが、そこに米朝の違いはまったく見られず、呼吸もぴったりと合っていた。演奏したニューヨーク・フィルの団員は、音楽を通じて一気に相互理解の世界が広がったことを心から喜んでいた。まさに文化交流の力を見せ付けるものだ。


思えば敗戦国日本を占領した米国が、日本支配の基本的政策手段として選択したのはいわゆる3S政策であった。スポーツ、スクリーン、セックスのことだ。この3S政策は日本の中に崇米思想を振りまき、「自由の国」「最強国家」アメリカの幻想を植え付けた。日本人のアメリカ崇拝はまさに文化浸透によって作られたと言ってもいい。


それだけ文化というものは浸透力が強く、根付くのが早く、拡散範囲が広く、消えるのが遅い。加えて一般的に政治的干渉を嫌うので、政治的垣根を越え、政治的閉塞状態を打ち破るのに都合の良い手段である。


ところで現在の日朝関係を見ると、その文化交流の道さえも閉ざされている。いや、文化の領域でさえ対決状態である。当ブログでも紹介したことがあるが、現在、著作権問題で日朝間は対立しているのが、良い例だ。それも日本が北朝鮮を国家承認していないことを理由に、北朝鮮の著作権を認めないという一方的な形である。


当然、北朝鮮は国際著作権協定(ベルヌ条約)に加盟している。にも拘らず認めないと言うのだ。日本と同じく国家承認していないアメリカやフランスなどが北朝鮮の著作権を認めているのとは大きな違いだ。フランスやアメリカの懐の深さがない、日本の稚拙さが現れているもう一つの例に挙げられよう。


ところで日本が北朝鮮の著作権を認めない以上、北朝鮮が日本の著作権を認めることはないだろう。それは日本人著作権者の立場から見れば、北朝鮮が自分の著作物をどうのように扱ってもよいということになる。仮に日本の著作物(映画、アニメ、書籍、ゲームなど)が北朝鮮からネットや、衛星放送を使って配信されても文句が言えないことになる。それはまさに日本政府が日本国憲法で保障している著作権者の生活権を投げ捨てたことと同じ意味を持つ。


自民党政府は明確に、日本のマスメディアに対して北朝鮮の直権を認めないと明かしており、日本のTVメディアは政府の公式見解を金科玉条として北朝鮮の著作権を侵している。北朝鮮は今のところ日本の著作権を認め、日本人著作物を自国著作権法に従って保護しているが、それがいつまで続くかは保証の限りではないだろう。


政治の対立が文化にまで及んでは収拾はいっそう難しくなる。今の政治的対立状態から一歩踏み出し、閉塞感から抜け出すための小さなしかし確実な一歩として、この問題を解決してはどうか。難しいことではないだろう。それは日本人著作権者の生活を保護するためにも必要なのである。


日朝両国がたがいに著作権を認めない場合、そのために受ける経済的損失は日本の方が圧倒的に大きい。日本が北朝鮮の著作権を保護することは、同時に日本人著作権者を守ることであり、まさにWINWINの結果をもたらす。それだけでも北朝鮮の強硬な対日姿勢を和らげるのに効力を発揮しよう。ニューヨーク・フィルのピョンヤン演奏会以上の効果が期待できる。
今この著作権問題は最高裁の判決を待つ状態だ。政権交代はこの問題でも仕切りなおしのチャンスを与えている。