ボランティアセンターの日々その3
【北海道知床からこれまでの歩行距離数】6,421km
【これまでの総歩行距離(海外+国内)】約18,000km
【現在到達地】岡山県瀬戸内市長船町
【この冬の旅先越冬地&仕事場】京都府京丹後市弥栄町 竹野酒造⇒⇒⇒ひとさけひと
杜氏より大震災支援の差し入れあり、どうもありがとう
山田町のボランティアセンターにいる間、やるべき作業はいつもたくさんあってずっと時間に追われて
いたのは事実だが、間にはほっと一息つける瞬間もあった。
ただそんな時でもなんだかわからない張り詰めた空気というか緊張感があった。
という自分達の気持ちが作り出したものなのか、そんな人々が集まっていることからできているのか
慣れない作業に対する単なるプレッシャーなのか、よくわからないが終始奇妙な緊張感に縛られていた
気がする。
さらにしょっちゅう起こる余震も原因の一つだろう。
食事もインスタント物ばかりと非常に偏っていた。
これまでにそれほどインスタント物ばかりを食べた期間もないだろう。
シャワーも4~5日に一度しか使えていないし、洗濯も2週間で1度だけだ。
様々な理由で作業をしていない時でも何かしら落ち着かない気分のままでなかなかリラックスすること
ができなかった。
歩き人ふみとあゆみの居た岩手県山田町の山田町災害ボランティアセンターは、山田町社協
(社会福祉協議会)を中心に、静岡や長野など各地の社協のほか、民間のNPO法人北海道の
大雪りばぁねっとや三重県のみえ災害ボランティア支援センター(我々の派遣元)、北海道の町村会や
BRA(国境無き奉仕団)などの全国のいろいろな団体が集まって協力して運営している。
朝夕に各団体のリーダーが集まって会議をするのだが、三重チームからは私が代表で出席していた。
歩き人本人を知っている人にしてみればとても想像できない姿だろうが、おおまじめに会議に出席して
発言している姿は実際自分自身でも想像つかないものであった。
まあ緊張もしようというものだ。
結局2週間滞在していた訳だが、最初の1日だけボランティアとして2箇所に出向いて実際に作業を
し、残りはずっとボランティアセンターの中で運営スタッフとして作業した。
山田町のボランティアセンターは町の中心から5kmほど離れた場所にある。
初日に町を見ていらい最終日まで山田町の中心地の姿を見る機会はなく、それどころかボランティア
センターとなっていた会場の体育館からさえほとんど出ることはなく、町の様子はボランティアで
作業に出ていた人の話から想像するほかなかった。
町を出る最終日になってりばぁねっとの岡田さんが町を私達二人を連れて中心地に連れて行ってくれた。
2週間の間に町は見違えるようになっていた。
復興が見違えるように進んでいた訳ではなく、大きなガレキが撤去されていたので見通しが良くなって
いたということだ。
それと道路が広くきれいになっていた。これはボランティアによる道路の清掃の成果でもある。
ボランティアセンターは船越半島内にあるのだが、半島の付け根部分は町から出たガレキ置き場となっている。
そこには元々「鯨と海の科学館」という大きな施設があり、津波に飲まれながらも建物は残っていた。
町のシンボル的施設なので早く復活させたいという要望があり、建物内外の清掃作業にボランティアも
たくさん入っていただいた。
建物のすぐ横はガレキの山で、そこには町中のガレキが集まってきているためあらゆる物が入り
混じっている。晴れた日でも土ぼこりが舞い上がり、風が強い日にはトタンが飛んだりして危険だし、
雨が降ると地面はどろどろになる。気温が高くなれば臭いもさらにひどくなるだろう。
町中の家の泥出しの作業でも家の中に流れ込んできた魚が腐って転がっていることもある。
4月後半でも夜には雪が降った日もあった。
雨の日のボランティア作業は体を冷やして健康管理が大変だろうが、この地に住んでる人達にとっては
さらに厳しい環境だっただろう。
山田町の防災対策本部にも顔を出し、山田町長にも紹介してもらって
「山田町の現状を全国の皆さんに伝えて欲しい」
との言葉をいただいた。
これから先どういった形で山田町や岩手県、東日本の被災地に関わっていくことになるかはわからない。
またそのうち山田町に戻るかもしれないし、別の地に行くかもしれないし、しばらくは現地と離れる
かもしれないし、自分達でも予想つかない。
しかし当然のことながら関係がなくなるということはない。
でもそれは我々だけのことではなく日本中の人がいろいろな形で東日本の被災地と関わりあっていくと
いうのは間違いない。
私達は縁があってこうして岩手県に来て直接作業することになったが、こうして現地に来ることがより
正しいことだとは思わない。
お金は無いけど自由な時間に恵まれている我々だからこそ直接訪れた訳だが、地元にいて支援活動に
参加したり募金したりすることは全く同様に大切なことだろう。
東北の産物を買ったり、観光地を訪れたりすることも同じだ。
できることはいくらだってあると思う。
私達は近いうちに再び歩き旅を再開する。
もちろん現地を訪れたからこそできる話もあるし、成長できたこともあると思う。
旅を続けながらもこの大震災の復興のためにできることはある。
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山田町のボランティアセンターにいる間、やるべき作業はいつもたくさんあってずっと時間に追われて
いたのは事実だが、間にはほっと一息つける瞬間もあった。
ただそんな時でもなんだかわからない張り詰めた空気というか緊張感があった。
という自分達の気持ちが作り出したものなのか、そんな人々が集まっていることからできているのか
慣れない作業に対する単なるプレッシャーなのか、よくわからないが終始奇妙な緊張感に縛られていた
気がする。
さらにしょっちゅう起こる余震も原因の一つだろう。
食事もインスタント物ばかりと非常に偏っていた。
これまでにそれほどインスタント物ばかりを食べた期間もないだろう。
シャワーも4~5日に一度しか使えていないし、洗濯も2週間で1度だけだ。
様々な理由で作業をしていない時でも何かしら落ち着かない気分のままでなかなかリラックスすること
ができなかった。
歩き人ふみとあゆみの居た岩手県山田町の山田町災害ボランティアセンターは、山田町社協
(社会福祉協議会)を中心に、静岡や長野など各地の社協のほか、民間のNPO法人北海道の
大雪りばぁねっとや三重県のみえ災害ボランティア支援センター(我々の派遣元)、北海道の町村会や
BRA(国境無き奉仕団)などの全国のいろいろな団体が集まって協力して運営している。
朝夕に各団体のリーダーが集まって会議をするのだが、三重チームからは私が代表で出席していた。
歩き人本人を知っている人にしてみればとても想像できない姿だろうが、おおまじめに会議に出席して
発言している姿は実際自分自身でも想像つかないものであった。
まあ緊張もしようというものだ。
結局2週間滞在していた訳だが、最初の1日だけボランティアとして2箇所に出向いて実際に作業を
し、残りはずっとボランティアセンターの中で運営スタッフとして作業した。
山田町のボランティアセンターは町の中心から5kmほど離れた場所にある。
初日に町を見ていらい最終日まで山田町の中心地の姿を見る機会はなく、それどころかボランティア
センターとなっていた会場の体育館からさえほとんど出ることはなく、町の様子はボランティアで
作業に出ていた人の話から想像するほかなかった。
町を出る最終日になってりばぁねっとの岡田さんが町を私達二人を連れて中心地に連れて行ってくれた。
2週間の間に町は見違えるようになっていた。
復興が見違えるように進んでいた訳ではなく、大きなガレキが撤去されていたので見通しが良くなって
いたということだ。
それと道路が広くきれいになっていた。これはボランティアによる道路の清掃の成果でもある。
ボランティアセンターは船越半島内にあるのだが、半島の付け根部分は町から出たガレキ置き場となっている。
そこには元々「鯨と海の科学館」という大きな施設があり、津波に飲まれながらも建物は残っていた。
町のシンボル的施設なので早く復活させたいという要望があり、建物内外の清掃作業にボランティアも
たくさん入っていただいた。
建物のすぐ横はガレキの山で、そこには町中のガレキが集まってきているためあらゆる物が入り
混じっている。晴れた日でも土ぼこりが舞い上がり、風が強い日にはトタンが飛んだりして危険だし、
雨が降ると地面はどろどろになる。気温が高くなれば臭いもさらにひどくなるだろう。
町中の家の泥出しの作業でも家の中に流れ込んできた魚が腐って転がっていることもある。
4月後半でも夜には雪が降った日もあった。
雨の日のボランティア作業は体を冷やして健康管理が大変だろうが、この地に住んでる人達にとっては
さらに厳しい環境だっただろう。
山田町の防災対策本部にも顔を出し、山田町長にも紹介してもらって
「山田町の現状を全国の皆さんに伝えて欲しい」
との言葉をいただいた。
これから先どういった形で山田町や岩手県、東日本の被災地に関わっていくことになるかはわからない。
またそのうち山田町に戻るかもしれないし、別の地に行くかもしれないし、しばらくは現地と離れる
かもしれないし、自分達でも予想つかない。
しかし当然のことながら関係がなくなるということはない。
でもそれは我々だけのことではなく日本中の人がいろいろな形で東日本の被災地と関わりあっていくと
いうのは間違いない。
私達は縁があってこうして岩手県に来て直接作業することになったが、こうして現地に来ることがより
正しいことだとは思わない。
お金は無いけど自由な時間に恵まれている我々だからこそ直接訪れた訳だが、地元にいて支援活動に
参加したり募金したりすることは全く同様に大切なことだろう。
東北の産物を買ったり、観光地を訪れたりすることも同じだ。
できることはいくらだってあると思う。
私達は近いうちに再び歩き旅を再開する。
もちろん現地を訪れたからこそできる話もあるし、成長できたこともあると思う。
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