初再呈示

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よく、「そういうことは空想(想像、夢想)にすぎない」、といわれる。しかしヤスパースでもいわれたように、「夢想によって開かれる可能性の空間なくして信仰はない」のであり、また、「真に内実ある夢想は愛の本質察知力にもとづいている」のである。「空想」という言葉そのものがすでに否定的な価値判定的言表であるので、価値肯定的な立場からは、むしろ「想像、夢想」といわれるだろう。この力(想像力)は、所謂固定的な現実から心を解放し、自由の可能性を創造する〔ゆえにこの力は正に「力」であり、主体の能動的な内的行為なのである〕。それが責められるのは、現実と可能性との間の距離を感知しない判断をして行動の仕方を誤る場合であろう。真の愛の察知力にもとづいているとき、このような想像による過誤は可能な限り回避されうるだろう。もうひとつ注意すべきは、「現実」そのものがわれわれの判断の所産であるということである。「現実」をどのようなものと観ずるかは、むしろ当事者の想像力の資質や器量によって浸透されている。厳密には、われわれ各自の想像作用から解放されている現実など人間には存在しないのである。現実は、人間主観が定立措定するところの現象であるというのが、現実の超越論的(トランスツェンデンタール)な真実である。そこまで厳密に詰めなくとも、「愛」のある者にしてはじめて、「現実」と「夢想」の間の距離を、公平に量る理性を保持していることができ、「人間の自由」の実現に寄与する。愛も品格もなき卑しき者は、このことができない。現実とはこの者にとってただの唯物的実在にすぎないのである。







ひとはなぜ、「一切万物との和解」などと大仰なことをかんがえるのであろうか。しかも、「それは理屈理論ではなく経験であり体験であるのだ」、と言いながらである。イエスは、「わたしが来たのは和解させるためではなく、人々の間に剣を投げ込むためである」、と既に言っている(とされている)。ぼくは、「和解などかんがえる必要はない」、と直感的に思う。この「直感」を、いま解きほぐして、明瞭な「直観」にしようとしているところなのだ。「あらためて」、というべきだろう。はっきりとさせるべきことは、すでにぼくはこの欄で言っている、とおもうから。ようするに、とくに日本人は、具体的に自分自身に向って行動する前に、観想的準備的段階で、「悟りの目標」を自分に設定するわるいくせがある。上の「和解」などもそうだ。「こうありたい、そうすれば楽だろう、それにはどうするか」、という具合であり、はじめから、「内部の自我」など側(かたわら)に置いているのである。自我感覚は情緒的には在るが、未分化で漠然としすぎている。「自我へ向って行動」する前に、「究極的なもの」を観念的に思惟しはじめている。多分ここに、「東洋(日本)的」と「西欧的」のちがいがあるのだろう。そして「人間」としてのぼくはあきらかに、本性的に後者である。ぼくの道は「悟り」ではなく「自己の具体的実証」をもとめる。これは、高田博厚から影響されたなどという皮相な傾向性ではない〔真の「影響」とは、ぼくの著書のなかでも同じ意味のことを言ったが、本性的に同質の他者のうちに自分の自己確認(自己の明瞭化と確信)を見出すことである〕。ベルクソンを自己流に読み込んだ西田幾多郎の発想にほとんど生理的な不快感を覚え、むしろデカルトの道に従いたいとかんじる、ぼくの本性的なものである。「自然情感」は、「自然への没入」ではなくむしろ「自我の内部世界への窓」と感じる心性と、軌を一にする。



君の中には、君に必要なすべてがある。「太陽」もある。「星」もある。「月」もある。君の求める光は、君自身の内にあるのだ。

 ヘルマン・ヘッセ

 


 

かんがえてみてもわかるように、文字通りの「一切万物との和解」など、まやかしいがいのなにものでもない(ここにも情緒主義の罠がある)。「自分が自分自身と和解する」ことがすべてである。しかもそれは「妥協」ではけっしてありえない。「自分との和解」は、「創造する」ことによっていがいにはありえない。創造するものは人生でもあり作品でもあり、人生と作品との差異が消えて「ひとつ」であるような創造である。


「一切万物との和解」は、「自己との対決」を避ける者が その代償として、情緒放散的に他を巻き込む 押しつけがましく内実を欠いた空想的観念行為となるだろう。



和解とは、意図してなされるものではなく、妥協なく生きたことの予期せざる結果でのみありうる。〕 4.18