再び観てみようという気にさせる力作短評 

じぶんでも忘れていた。

作られたのがマルセル「稜線の路」と同年

初再呈示

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を今夜(土曜)、二度めとして観た(1936年作、ロンドン・フィルム「来るべき世界」)。一度めはずっと以前、唯の娯楽作品として何かの機会に通し見ただけだったが、今度、その余りの内容の多様な深さに驚いた。ぼくが「戦争」を経験し、いまも経験しているから、受け取る深刻さ、意味の読み込みが全く違うのだ(ぼくが過去形で書いたら途端に屋外で通行人の咳払いがきこえたから、やはり唯事ではないと思い、現在進行形に書き換えた。まだ続けている。告発しておく。長い経験があるから、偶然でないと判断できる)。いかにもアングロサクソンらしい作品だが、人間と人類の性(さが)と歴史を踏まえており、同時に一挙に我々の現代を超え先を見ている。なぜ今夜これをふと観る気になったのか。ぼくの言動には高い確率でシンクロ現象が伴うことを経験している。平和な文化生活が突然の宣戦布告なしの戦争攻撃によって破壊されるところから始まる臨場感が凄まじくリアルである。この最初が作品の頂点であると思う。社会は一挙に非倫理的野蛮の暗黒時代に逆戻りする。人類の繰り返してきた事を了解する。やがて「理性」の王国を未来的に再建する(執拗にそのイメージを創造しているのはコミュニズム映画の社会建設シーンを彷彿させる)が、人間は今度は自分達が「進歩の奴隷」となっていることに気づき、生活に安らぎを与えない「絶えざる進歩」に反逆し始めるところで、進歩への肯定と否定の両つを極端に対峙させつつ作品を終える。征服人アングロサクソンらしい二律背反で、そこに文化的盲点があるのだが、それはいま言う必要はない。人間は「野蛮の奴隷」になることを、その愚かさを充分精神的に自覚しながら社会的には繰り返していることを原理的に描ききっていると同時に、対極に「進歩の奴隷」を同一作品中に並置しているのは随分創作者の構想力が沸騰していると思わせた。回顧的預言的である。これだけ書く気はなかったが、軍国主義の野蛮の勝利の空々しさの確認を得たと同時に、「進歩の奴隷」という言葉を得たことを、書き記しておこうと思ったのみ。