島崎藤村が子供のじぶんが育った家や村の環境を「ふるさと」で描いており、さきに紹介したすずめの子がしきりに出てくるので、ああやはりだからこの作品のさいしょにすずめの子のはなしがあるのだなと納得した。子供の藤村にとってすずめは日常の気の通った友だちで、すずめと話していたのだ。子供のかれの住んでいた家は、いまはないがぼくの子供の頃の家を思い出させる。子供のぼくにとってひとつの広い世界だった。家のなかのいろんな場所を思い出す。薪で焚くタイル敷きの広い風呂場の奥には倉庫があり、木材などが置いてあって、光のあまり差さないそこは探検の遊び場になっていてジャングルのようだった。いまの洋風住宅のような単純なものではない。用途別に割り当てられた多くの間取りでできていた。昔は普通であったのだろうが、その日本家屋はゆたかな空間だった。いまは純粋な日本家屋もないだろう。すべて、外界を隔てる壁で被っている、監視カメラ付きの住宅だ。昔のぼくの家は台所のなかに立派な井戸があった。水道が出るので普段つかわなくなった井戸の上には蓋をして、その上に冷蔵庫を置いていて、その場所は高かった。赤ん坊の頃からいたぼくにはその家の空間は様々な場所をもった神秘で夢のような世界だったと、いまからでは思える。意識の本格的な目覚め以前の幸福なぼくの時代だった。こういう場所や記憶がやはり文学の故郷(ふるさと)になるのだろう。