それにしても、霊性の証びと(世にはかれのことをキリスト教的実存思想者と言う呼び方がある)と云われるマルセルが、なぜ、このような、霊性の証とはなっていない戯曲を書いたのか。ぼくはこのことでかれと対決するほどには、みずから人間として成熟している者である。しかしこの書のことでは、対決する気も起こらない。ただ解放されて、もう後ろを振り向きたくもないのである。ぼくはよく、最後の頁をわざと見ないで、訳したと思う。訳す動機力を保存するこの方法は、完訳を実現するためには、貢献した。マルセルが裏切ったのは、かれの哲学方向そのものである。書く意味の無い(部分は意味があるが)ものをどうしてかれは書いたのか。それをかんがえることも、振り向くことだから、ぼくはしたくないのである。 

 

 

護りたいものがあって作るのでなければ、作品など書くものではない。現実存在ではなくイデアリスムがなければ実存そのものが破綻する。そういう節操がかれに自覚されていたか、疑問を懐かせる箇所もいくつかこの作品にはあった。