いまと同じレベルかそれを凌ぐ以前や初年の文章を味読できることは嬉しいことだ。根源的な、あるいは深まりゆく円環を為している。自分の以前の文章に真剣に沈潜することができる! 

 

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ほんとうに奥ゆきのあるしっかりした表情をするひとだ。

繊細さをそのままに支える核の強さ(自分を受けとめ向き合える)がなければ芸術家は存在しない。

 

 

世人は、高きものへの忠実ということを正しく理解していない。ベルナールのキリストへの忠実の生はどうだったか。

 

どういう路でも神の手(みちびき)のなかにある。そのなかでぼくは自分の決断に基づいて、自分の路と決めた路をたどるのだ。自分のなかでの歴史的整合性の感覚をたよりに。緻密さとはこのことである。そのつど自分にとっての判断をしてゆく。他を判断するのではない。それを他が判定してはならない。

 

奥ゆかしさは その核において他相手のものではない。みずからに向いているから奥ゆかしい。その奥には神がいる。この態度から存在論的魅力(マルセル)が生まれているのだ。これが真の優美(grâce)であり、恩寵と同語である。

 


 


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高田博厚の作品世界はやはり或る名づけ難い「存在」の世界を向いている。やはりこれはすごい。これを内面の世界と言うことはたやすいばかりでなくまちがっている。「存在」に向いているのだ。形而上的存在に向いている。そういういみで内面的とは言える。そしてそれにいったん気づいてしまえば、真の存在とはなにかをこれらは示しているのだ。存在意識の変化をこれらはひきおこす。高田の作品の前に立ち、それを感じてしまえば、「存在」はもうまったく〈物質〉だなどと思わなくなる。 「精神」の示す実体こそ「存在」であることがはっきりとわかる。高田の全作品は「神」の世界を「人体」によってまったく純粋に示す。肉的なものが、形状がそのままのようでまったく肉性を克服され、「神」の外皮となりその存在性が湧出している。ここでは官能性がまったく克服され無に帰し、精神性のみになっているのはおどろくばかりで、作者がいかなる精神境位で制作したかをあますところなく現わしている。このひとは世評ではいろいろ言われるがそういう類はこのひとの精神のありようとはまったく無関係で、世のあらゆることとは異なる次元に身を置いて制作している。こんなに「神に面する孤独」を実体的に「触知」させるものはない。孤独と敬虔とはこれである。いかなる〈唯物〉論者も、高田の人物・人体像の前に立たせれば、「神」すなわち形而上世界の存在性が解り、このいみにおいて「忽然と回心」することがありうるであろう。シャルトル聖堂の前で忽然と回心したユイスマンスとおなじことがおこるであろう。何が「存在」か、証明し議論することは空しい。「人は欲するものは何でも証明することができる」(アラン)。感覚(意識実感)のみが窮極的に結論する。