初再呈示  この内容を わりと最近書いたことに驚く。

 

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このことを書いておこう。ぼくは過去の長い間、読書恐怖だった。これはある意味でずっと続いている。しかし読書だけが問題だったのではもちろんない。読書において端的に現われ意識される、「意識」障害が、本質的な問題なのであり、これは、ぼくにおいて、行為全般に現われていた問題なのである。「意識」障害、と言ったが、これは、意識の過多によって、普通の行為に障害を来すことである。ぼくが本を読もうとすると、ぼくはただちに、「本を読む自分」を意識するので、この「意識」が、ぼくと本との間に入って、読書に集中できなくなるのである。このようにしてぼくは、発語障害、聴取障害にまで到った。これは勿論、いかなる病気でもない。人間に特有の意識性が高度に自己展開した結果である。これは、この同じ意識性を用いては、克服されない。反対に、もっと高じることになる。けっきょく、この意識性を振り切るような熱中できる関心対象を見いだすまで、解放されることはなかった。あまりに頭が良すぎた(聡明すぎた)のである。 

 行為とは、ぼくにとって、いまでも、意識性との格闘である。

 

 

(そのぼくが、ドイツ語・フランス語で哲学原書を何千頁も読み、透徹して理解し、論文を書き、現地で口頭試問まで受けて優秀な成績で博士を取得したのだから、たいしたものである。並の努力ではなかった。しかもぼくは、知的営為に致命的な障碍となる耳疾患の地獄の耳鳴り-日本での不適切な治療が原因である-に悩まされながらという、二重三重の心身苦痛と闘いながら、この学問研究をしたのである。それを想起すると、ぼくは誇りではち切れそうになる。そのぼくを侮辱する者が地獄へ落ちるのはあたりまえである。天にすら許さん。)

 

 

ぼくは、哲学・美術、山ほど勉強することがある。 疾患や集合容喙で邪魔した自然とこの世は、償いとして今度はぼくを支える義務がある。