ヤスパースの包括者論を援用しても、人間には、実存としての欲求と、意識としての欲求の、次元が異なる二つの欲求がある。むろん、生命(現存在)としての欲求も人間にはあるが、精神的存在としての人間の欲求は、実存としてのそれと、意識としてのそれだろう。この二つの欲求の一つを絶対化すると、人間の全体を見失い、欺瞞と紛糾に陥る。人間は実存として、かけがえのない、比較を超越して充実した自己の実現を欲するが、だからといって、人間が意識を放棄できるわけではないのである。意識の本質は、外的視点から比較をして認識することである。人間の自己の内面的固有性(すなわち実存的内実)は、意識の関心事ではない。人間がこの二つの、根拠を異にする欲求をともにもちつづけることは、留意しておくべきである。人間は実存であり、かつ意識であるからである。その二重性に人間の人間たる所以がある。人間の本来的関心事は、たしかに、実存としての自己であるべきである。だがそれでも、人間は、他との比較において優越したい、覇者でありたい、という、比較意識からの欲求を、根絶できないだろう。この意識を満足させようとする努力は、人間の健全な欲求に基づいている、と言うことができると、ぼくは思う。だからぼくは、じぶんの実存欲求に伸び伸びと生きるために、じぶんの比較意識の欲求を満足させておこうとして、フランスという正統哲学の本場で、学位を取ったのである。これは、日本の有名大学へのペーパーテストによる入学よりも ぼくの尊厳に相応しい、ぼくの健全な自信となった。ぼくの実力を客観的に証するものであり、かつ、世の馬の骨のような輩を黙らせる、雑音遮断の力をもつものなのである。 ぼくの意図は、学位を誇るよりも、自分を堂々と比較意識から解放することにあったのである。