ぼくをどう評価するかで、その人間の「人間」が判定されるだけでなく、その人間の「人生」が決定される。
このように言って正しい者は、ぼくしかいない。
世の第三者的他者(つまり信頼していない Lui の次元の者)は、ぼくにとって集合容喙連より害悪である。彼らに言葉をあたえたのは、神の大罪である。
ぼくの念はかならずその意思を達する。どうしてかは知らない。念の巧智というものがあるようだ。 聖書でいう信仰の意味はこれだろう。
世によっては真実はぼくに告げられないから、ぼくは信仰をもつしかない。
自分のための勉強をするのみ。
高田さんからは学ぶべきものがたくさんある。大衆など相手にしていられない。
《西欧が曲折しながら経験してきた知性経路が、日本のいわゆる「精神伝統」になかった》。 《日本知性にとって最も危険なのは、日本人の特性である、この「精神的」で一切を包括する安直さであり、つまり「精神の合理」に苦労しない》ことである。
-高田博厚 「「批評精神」についての感想」 (創文社「創文」1973・9)-
『もう一つの眼』所収