高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスム序説    

   ――― 「僕の愛と美と信仰」 ――― 




―― 集合容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害者です。――
自分の本来の魂的生を貫くため、そして
集合容喙と強制薬害の事実を証言し国に問題を解明解決させるため、
この電子欄を書いています。


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自分は大丈夫、と思っていることがしばしば批判される。しかしこの思いは、不安とともに、自分を安定させる働きなのである。ヤスパースのような実存哲学者も、不安がらせようとしているのではなく、不安の根拠を凝視し、不安からの根本的な超脱を、志向しているのである。いまヤスパースのことは詳論しない。ぼくの根本見地を記そうと思う。自分は大丈夫、と思っていることは、ある意味で、平常心のために不可欠である。具体的な状況に直面して、この思いが不安に転じることはある。具体的な対処をできるかぎり講じることは必要であるが、同時に、心理的な自己ケアの面を反省すると、自分は大丈夫という思いを、いかに再建するかが大事である。不安をどう克服するか。そういうとき、日頃の、自分は大丈夫という思いは、何にもとづいていたのかを反省し、無自覚ながらの信仰であったこと、自然な確信であったことに、気づく。窮極的に信仰・確信に至ることが大事であるなら、この信仰・確信を、日頃の自分は大丈夫という思いは、無自覚でも先取りしていたのだと、ぼくは思う。すべての探求に先立って、得るべきものをじつはわれわれは持っている。この、先立って持っている内的感覚を、純粋に自覚することが、求める信仰・確信に至ることだと、ぼくは思う。日頃の感覚は、信仰であったのだ。それに気づき、その信仰を、ふたたび、感覚として復活させること。この内的意識をとりもどす。信仰は観念的志向ではなく内的感覚となったときこそ成就されている、とぼくは思う。そして、純粋に、自分は大丈夫、という感覚・意識を、いまや意識的に操作する。そうして、不安のなかの平常心ではなく、正真正銘の平常心を、自由に回復させるのである。これは、合理的に会得できる自己意識操作であるとぼくは確信する。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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