今日まで人が「神」として拝んできた神(ユダヤ・キリスト教、仏教など)は、人間の為に、人間が想像してきた神であり、天地実在の真なる理(ことわり)ではないのです。

 

不可見界の無限次元に亘る存在=「神」とは異なるものであります。

 

それでは天地創造の原理とは如何なるものなのか?

 

その前に、皆様に知っていただきたいことがあります。

 

神様のお出でになるお宮と、お出にならないお宮とがあることを!

 

歴史が古く全国に崇敬者のある有名神社でも、神様不在のお宮があれば、寂れた山村や林道の脇に佇むような小さな神社でも神様がお出でになる、神気溢れんばかりのお宮があります。

 

この違いは何かと思いますか?

 

神とは、「やあやあやあとか言いながら、私の造った世界は今どうなっているのかな?」等とこの地上に降りてきて、かの「水戸黄門」のように漫遊しているような存在ではないのです。

 

そして「お前は悪いことをしているから罰してやる」等と属人的なことをする存在でもないのです。

 

神とは世界そのものであり(霊界、現界、意識界、無意識界)、我々はこの神の中で、与えられた役割に沿って生かされている存在なのです。

 

我々が本当のことを知ろうと思えば、まず最初にそのことを理解しなければなりません。

 

我々の先祖が、この不可思議なる「モノ」の存在を感じた時に、其れを神と呼んで畏れ崇め祀りしたことが始まりでした。

 

その神を身近に感じる場所として「神社」が建てられたのです。

 

当初の神社には神や神霊の降臨も神気も確実にありました。

 

其処を訪れる者達もそれを直に体感できていたのです。

 

時代が下って、仏教が我が国に根付き始めたころから、おかしくなっていきました。

 

神に名前を付けたり、神に願いを掛けたり、まさに神とは人のための道具のような存在と化していったのでした。

 

神社は神官なるものが守り、その管理上のルールに従って参詣をするような形に変化していったのです。

 

もはや人と神が相通じるような以前のようなことは本当に少なくなりました。

 

それでもきちんとした神社には今でも「霊線」が通じています。

 

これは人間の理性とか、悟性とかの心の次元では知りえない「叡智」と云う心の発動があって始めて窺い知ることが出来る領域の問題なのです。

 

これを我がものとするには厳格な修行の道程があって為せるものなのです。

 

我が国の神道には、こうした事実が存在しながらも、敢えて口外しない「神ながら事挙げせぬ」の事実が無数に存在しているのです。

 

この先も、人が理性と知性に頼っているようでは、真の事実には遭遇することはないことでしょう。

 

霊線の途絶えたお宮に参拝し、ありがたく其処の神札を頂いても、単なる自己満足でしかありません。

 

更にそうした神気の少なくなったお宮の神札でも、授与された者がその仕組みを知っていて、地力があれば、自分でその神社の御神気を御札に降ろすことは出来ますが。

 

私の勉強会ではそうしたことを皆様に伝えて実践して頂いています。

 

その気になって満足しているだけでは、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と変わりませんから。