【再録】スーパー宇宙パワーがいた風景――今のDDTファンに知ってほしい木村浩一郎 | KEN筆.txt

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1日遅れてしまいましたが、昨日10月28日は木村浩一郎さん5回目のご命日でした。日本のインディーシーンと総合格闘技に足跡を残し、DDT旗揚げから「スーパー宇宙パワー」として強さの象徴を担うことで団体の成長に多大なる貢献をされた方です。生前、ゆかりのあったイーグルプロレスの10・28小山大会では追悼式が催されました。

 

現在もそのイズムはDDTの中に息づき、何よりも直接指導を受けた東京女子プロレス・優宇選手が遺志を受け継いでリングへ上がっています。4年前、アーリーDDTを知らない世代のファンが増えていた中で木村さんの功績を知ってもらうべく、追悼文を書きました。現在は閲覧できない状態となっていますのでこの機に再録し、一人でも多くの当時読まれなかった方、木村さんへ触れていない方に知っていただきたく思います。

 

▲画像はすべて2014年12月8日、新木場1stRINGにておこなわれた追悼興行より

 

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DDT草創期に現在の礎を築いた木村浩一郎さんが10月28日未明、肺炎のため逝去した。享年44というあまりに早い死を高木三四郎社長からの連絡で知らされるや、さまざま年代のシーンが頭の中を駆け巡った。W★INGにおける最初の出逢いから、最後の会話となってしまった6月の北都プロレス夢の島大会会場まで、そのどれもがまるで1人の人間とは思えぬほどのバラつきで、まだ“振り幅”などという言い回しが定着するよりもずっと前から、木村さんはプロレスと格闘技の間を流浪する一匹狼だった。

木村さんがDDTに携わらなかったら、もしかすると自分とこの団体の距離感は今とずっと違うものになっていたかもしれない。もともと私は、自発的に関心を持って取材するようになったわけではなかった。旗揚げ当時は、雨後の筍のように乱立するインディー団体のひとつという印象で、W★ING時代からの知り合いだった木村さんが無名で若い選手たちを集めてやっている…その程度の認識でしかなかったのが、正直なところだった。

リングスや総合格闘技でも活躍し、ヒクソン・グレイシーと闘うなど腕一本でやってきた木村さんは、いくつかのプロレス団体に所属しながらどれも長くは続かなかった。そこには自らのアイデンティティーである“強さ”と、プロレス特有の“見せる”“受け”の価値観とのギャップが常にまとわりつき、周囲との考え方の相違を生じさせたように思う。

そんな木村さんが、なぜこの期に及んで無名のインディーレスラーを束ねて団体をやろうとしたのかが、ピンと来なかった。史実的には高野拳磁率いるPWCが活動不能となりながら「このままでは終われない」とNOSAWA論外が高木に団体旗揚げを呼びかけ当時、葛飾区金町のパチンコ店で働いていた木村さんのもとへ連れていった――となっている。

そこではMIKAMIも働いており、パチンコ店店員の制服を着た2人とNOSAWAに店の前で囲まれ「団体をやろう!」と情熱的に言われた高木が決意するというところから、DDTの歴史は始まった。本来ならば業界でのキャリアが一番ある木村さんが前面に立ってしかるべきだったが、本人はそれをヨシとしなかった。

理由としては、木村さんは前年の97年に剛竜馬の冴夢来プロレス後楽園大会に乱入し、興行そのものをブチ壊した“前科”があった。これは「俺と闘え!」といった対戦を迫るものではなく、この日に出場した若手が義理を欠いたためその制裁を目的としたものだったが、大会をメチャクチャにしたのだかられっきとした掟破りの行為だった。

本人はあっけらかんとしていたものの業界的に要注意人物と見られたため、団体をやる上で足かせとなる。それで木村さんは「三四郎と野沢、三上の3人で旗揚げしたということにして、俺は対戦する側に回るから」となった。


もしも自分がエースとなるための団体設立と木村さんが考えたら、DDTはまったく違ったスタートを切っていた。無名の3人から始まったドインディーは現実的に厳しかったものの、のちにはそれがウリにもなった。旗揚げすること自体が身の程知らずと自覚していた高木らには、プロモーションの術がなかった。専門誌にとりあげてほしいのは山々だが、後ろめたさが拭えない。何より、マスコミとのパイプが皆無だった。

唯一、そのキャリアの中でラインを持っていたのが木村さん。設立前に週プロ編集部へ挨拶に訪れたさいも高木と同行し、旗揚げ後は「どうやったらDDTは誌面に載りますか」と担当記者に掛け合った。木村さんは単に少しでも多く載ることで満足するのではなく、どんな方向性で誌面展開するべきかまでを考え、ぶつけてきた。主張できるほどの立場ではないとわきまえる高木は、その横でじっとしている…そんな関係だった。

旗揚げして数戦目の日比谷ラジオシティーで、私はDDTを初めて見た。木村さんから「一度見に来てください」と誘われてのものだった。今にして思うと、この時に声をかけてもらわなかったら、プレ旗揚げ戦の地であるラジオシティーを体験しないままだった。全試合を終え、首から下はスーパー宇宙パワーのままという姿で木村さんは高木を連れてやってきた。

私が高木三四郎と話したのはこの時が最初であり、黒のショートタイツにリングシューズとインディーにしては地味なスタイルでやっていけるのかという思いが第一印象。じっさい、その日の試合に関してはまるで記憶に残っていない。私は紹介を受けたあと、開口一番に木村さんへ聞いてみた。なぜ、この団体をやるつもりになったのかを。

「まあ、乗りかかった船だし、こいつもレスラーとしてはまだまだですけど、根が真面目なやつなんで。よろしく面倒見てやってくださいよ」

一匹狼とばかり思っていたが、木村さんには親分肌の一面もあった。若い連中が無謀であるのを承知の上で、自分たちの力でなんとかしようと足掻いている。その力になるかどうかの見極めは、至極真っ当な「根が真面目」という点だったのだ。何年か経ちDDTがある程度軌道に乗った頃、木村さんに「あの頃はよくやめなかったですね」と振ったことがあった。

「それは、プレ旗揚げ戦に尽きますね。あの時、俺とスーパーライダーで三四郎と野沢をボッコボコにしたでしょ。俺は2人が音をあげてもいいというぐらいの気持ちで徹底的にやった。それまでは、あんなにガッチガチにやられたことって2人ともなかったと思うんですよ。あそこで『プロレスはキツいからやめます』って言ったらそれまで。この程度のことで諦めるようなら、所詮長続きはしませんよ。でも、三四郎は音をあげなかった。だったら俺もこいつらのためにやれることはって考えて、技術的なことや精神の部分を教えていった。アイデアに関しては三四郎に任せられましたからね」


旗揚げメンバーの3人に次いで、佐々木貴がIWA格闘志塾から移籍。徐々に選手も増えていったが、DDTには道場がなかった。そこで木村さんの地元・館林まで車に乗り込み合同練習へ通った。これが想像を絶する厳しさで、いく途中のサービスエリアに車を停めては何度も東京へ引き返そうと思ったほどだったと高木は回想する。

どんなスタイルでやろうとも、プロレスラーはナメられてはならない。強さや技術を備えた上でエンターテインメント性に走るのと、そうした下地も持たずに緩いことをやるのとではまるで違う。木村さんはインディーを渡り歩く中で後者のケースを何度も見てきた。だから、DDTの人間は同じように見られたくなかったのだ。

「あの頃は、なんでここまでやらなきゃいけないんだろうって理解できなかったんですけど、今になって必要だったって思えるんです。たとえ練習でやったことが一度も試合で出なくても、基礎さえ身につけていれば見られ方が違ってくるし何かあった時の自信にもなる。とはいえ…あの頃の練習を今の連中にやらせたらほとんどがついていけないでしょうね。それほど木村さんの鍛え方は厳しかった」(高木)

スーパー宇宙パワーの存在意義も、木村さんがクリエイトしたものといっていい。もともとはPWCでショーグンKYワカマツが率い、怪奇派にカテゴライズされていたものを“強さの象徴”へと昇華させた。イロモノキャラなのに闘ったら凄いという発想は当時、まだなかった。


これは推測なのだが、木村さんの中で強さをダイレクトに表現するスタイルについてはやりきった感があったように思う。ヒクソンと闘うまでになったのだから、それ以上を追及するには総合格闘技の世界で極めていくしかない。でも、それはDDTでやるべきこととは違う。団体の方向性に合わせつつも、自身の信念は捨てずにやれる…それを具現化したのがスーパー宇宙パワーだったのだろう。

声色を変えて宇宙語で話す木村さんが、本来の野太いドスの効いた声を出すとその場の雰囲気が一変した。2002年5月3日の後楽園ホールで高木と一騎打ちをおこないKO-D無差別級王座を明け渡した以後はメインストーリーから退き、若手のデビュー戦で相手を務めた。石川修司、マサ高梨、柿本大地、マッスル坂井らの代はみんな宇宙語で合否を言い渡されている。すでに団体自体は旗揚げ時と比べ立派なものになっていたが、プロレスラーを名乗らせていいかどうかの見極めは、自分でしたかったに違いない。

その後、木村さんはフェードアウトするようにDDTを離れ、素顔に戻りWJへ参戦する。高木らに団体を任せられるようになったことで、一プレイヤーとして輝ける場を求めたのだと想像できるが、だからといって古巣への愛着を忘れたわけではなかった。佐々木健介にあこがれオマージュレスラーをやっていた藤沢一生(健心)を本家と対面させるべく画策した高木は、同じリングへ上がっていた木村さんを通じ交渉した。

木村さんがWJに上がらなかったら、DDT史上でも屈指の感動を呼んだ邂逅シーン(2003年12月29日、後楽園)は実現していない。この時の木村さんは、自分のことのように喜び、泣きじゃくる藤沢を見つめながらリング上で満面の笑みを浮かべていた。当時の健介は新日本を退団したばかりで、インディー団体のリングへ登場するばかりか、自分のモノマネをしているプロレスラーの存在を許容するとは思われていなかった。

そんな“カタい”業界の先輩にこの話を打診する難儀な役どころを受け入れたのは、木村さんの中へDDT愛が残っていたからにほかならない。その後もウェポンランブルの凶器としていきなり登場するなど、DDTとの関係が途切れることはなかった。素顔でフーテン・プロモーションに参戦した時も、顔を合わせるや「三四郎たちはどうですか? あんなに大きくなって、あの時に途中でやめなくて本当によかったですよね」と昔話に花が咲いた。思えば、高木社長のことを「三四郎」と呼ぶ人物も少なくなった。

 



W★INGで格闘三兄弟として売り出された時、私は初めて木村さんをインタビューした。時代時代で立ち位置を変えつつも、会うたびに「鈴木さんは僕を最初に取材してくれた人だから」と言ってくださった。前任のDDT担当記者から替わるとなった時、私が引き継ぐよう当時の編集長に頼んだのも木村さんだった。

最後の会話となった北都プロレスの会場では「俺もいろいろあったけど、またやろうと思っていることがあるんで力になってください」と言われた。「自分は週プロを離れたため、以前のように誌面的な協力に関してはお力になれないんです」と返すと「それなら、今の週プロの方とつないでください。今じゃ知っている記者さんもいないですから。お願いします」と一礼した。

その約束は、果たせぬままとなってしまった。木村さんがやろうとしていたのは、あの頃のDDTのように無名であっても真面目にプロレスへ取り組む地方インディーレスラーをとりあげてもらうことと思われる。いつの時代も、木村さんは真面目な若者たちが好きだった。

現在、DDTには各競技のバックボーンを持った若い力が集っている。このたび発足したDNAは、木村さんにこそ見てほしかった。練習のキツさにヒーヒー言っていた団体が、ここまでアスリート性を高めるまでになった事実は、もしかすると両国国技館や日本武道館に進出したこと以上に感慨深かったのでは…そう思えてならないのだ。(2014年10月29日・記)

 


 

【関連リンク】木村浩一郎追悼興行アルバム

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