先日、日刊ゲンダイさんのネットニュースに自分がとりあげられているのを認知して、拝読させていただいた。自分の不徳のいたすところであるが、この記事でも使われていた、「逆張り」という用法、私は全く理解したことがないので、今朝はそのことをとりあげたい。

 

日本語圏では、しばしば「逆張り」という表現が見られるけれども、少なくとも私の場合は、単に自分が感じたこと、考えたことをそのままストレートに書いているだけで、世間の流れや意見というものに敢えて反対のポジションをとっているということはない。

 

日本語圏で、「逆張り」という言葉が頻繁に使われるのは、つまり、言説というものは、世間の最大公約数を読んでそれに沿うようにするか、あるいは同意しなくても少なくとも世間の空気のようなものを認知してから発言すべきだという前提があるように思われる。その前提を私は受け入れない。

 

そもそも、世間の最大公約数があるという前提を私は共有していない。世の中にはさまざまな人がいて、さまざまな意見がある。それが一致する場合もあれば、一致しない場合もあるだろう。言論が、もし、世間の意見を推定してそれに合わせるゲームだとするならば、ずいぶんとくだらないものだと思う。

 

今回の日刊ゲンダイさんの記事もそうだが、日本のネットニュースの多くは、あたかも世間の最大公約数のような意見があることを前提にかかれているように見える。それを補強する素材として、しばしば、ネットの書き込みや匿名の関係者のコメントが使われる。しかし、ほんとうにそうなのかと思う。

 

「逆張り」という言葉を使った瞬間に、ああ、この人は「世間真理教」なんだなと思う。実際にはさまざまな意見があるものを、最大公約数の「世間」というものを幻視し、それとたまたまずれていた意見を「逆張り」と決めつける。そんなことで、メディアは、そして日本はだいじょうぶなのだろうか。