ブリタニカ日本

 ロンドンの街を歩いていて、確かに日本人は目立つ存在である。様々な店の並ぶオックスフォード・ストリートを歩いていて、向こうから日本人の集団が来ると、何故か、瞬間的にわかってしまう。そして、「海外における日本人の法則」に従い、我々は何故か目を伏せ、視線を合わせないようにしてしまう。この傾向は、特に、日本人の若い女性に多い。それも、そのはずである。彼女たちは、後に述べるように、自分たちは極東の日本という国から来たのではなく、「オズの魔法使い」の国から来たと思っているからである。
 ところで、何故英国に限らず、日本人は目立つのかという問題を永い間考えてきた私は、ある時ふと、その理由を理解するキーワードは「規律」(Discipline)だということに気がついた。日本文化の一つの基底は、我々が非常に規律を重んずるというところにある。日本人は、良かれ悪しかれ、集団の中で自分の動作を一定の規律の下におくという訓練を受けている。このような「武士道」に遡るような日本人の伝統が、より「いい加減」な外国人の間で、目立ってしまうのである。
 従って、日本人に見られないためのこつは、「投げやり」な態度をとることである。街の風景も、茶道の道具を拝見するようなうやうやしい態度で見るのではなく、「どうでもいい」というような、突き放した態度で見ると良い。服装も、どこか一点だけ崩すと良い。写真をとるときも、うやうやしくカメラを構えるのではなく、さりげなくポケットから取り出して、ふらっと撮るのがよい。そして、何事もなかったように、その場を立ち去るのである。
 ここで、服装について一言。確かに、英国はいまだに服飾については良いものをつくる伝統がある。現地で紳士の「服」を調達して、英国紳士を気取ってロンドンの街を歩きたいという気持ちもわかる。しかし、バッキンガム宮殿におけるお茶会に招待されたのならともかく、英国紳士を気取ったような格好をして歩くことだけは避けたい。今日の英国の若い人々にとって、そのような格好をして歩く日本人は、一種のジョークとしか映らないに違いない。

 一方、発想を変えて、「日本人」であることをポジティヴに示すことも一つの選択肢である。
 このような態度は、ちょうど隠れて「ゲイ」や「レズ」をやっていた人が、社会に対して、自分は「ゲイ」や「レズ」であると、積極的に表明すること(ステップ・アウト)に似ている。(別に、私は「日本人」であることが「ゲイ」や「レズ」であることと同じであるといっているのではないし、また、「ゲイ」や「レズ」であるということが、恥ずかしいことであると言っているわけでもない。)
 英国生活の達人は、「日本人」としてステップ・アウトしなければならない。何故ならば、英国生活の達人は、例え東京ディズニーランドに20回通ったとしても、自分の国籍が日本であることに変わりがないということを良く知っているからである。
 ここで、困るのは、「日本人」としてステップ・アウトする上での、小道具である。まさか、いまさら大小を差してちょんまげで歩くわけにはいかないし、また、羽織袴を着て歩くわけにも行かない。
 そこで、私が提案したいのは、「浮世絵Tシャツ」を着ることである。
 「浮世絵Tシャツ」は、もともと外人観光客のみやげ物用として開発され、帝国ホテルの近くの国際アーケードや、浅草の仲見世などでひそかに売られていた。最近の東京の「国際化」に伴って、上野や池袋の路地でも売られるようになったが、依然として、基本的に外国人向けのアイテムであることに変わりはない。このTシャツを、日本人としてステップアウトする小道具に使うのである。
 私が愛用しているのは、北斎の「冨獄三十六景」のシリーズである。特に、「凱風快晴」(赤冨士)と、「神奈川沖浪裏」の二点は、デザイン的にも優れ、手にも入れやすいから、この二点あたりから始めるのが良いだろう。
 「浮世絵」は、当時世界の中でも最も先鋭的な文化の発達していた、「江戸」という都市のエスプリの結晶である。従って、デザイン的にも、かなりきているものが多く、ロンドンのHard Rock Cafeでも、Planet Hollywoodでも、充分使用に耐えられるのである。「英国生活の達人」が、「日本人」としてステップアウトするのに、これほど適したアイテムはない。しかも、昼間の街歩きにはもちろん、「浮世絵Tシャツ」の上から、濃いめの色のジャケットでも羽織れば、ナイトライフにも適用できる。
 「浮世絵Tシャツ」を着ることは、最近流行の「逆輸入」のようなものである。もともとはエキゾティック好きの外人の為に開発されたTシャツを日本人が着るというところに、いかにも「英国生活の達人」好みの洒落た趣向があるのである。


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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)